(2) 都市住民にとっての境の場へ-白浜土地による白浜温泉の創造-
a 白浜土地の事業と本多静六の開発計画
小竹は大正8年5月に、資本金50万円で白良浜土地建物株式会社(以下白浜土地と略す)を設立し、瀬戸区の土地約8万坪を買収して温泉別荘地開発に乗り出した。この白浜土地の事業は、瀬戸と鉛山区の対立*44や第一次大戦後の好景気という好条件を背景に、大正8年の和歌山市起点の紀勢鉄道西線敷設の着工を契機として、南海・阪和両電鉄や大阪商船等の協力によって遂行された*45。白浜土地は、白良浜土地建物株式会社(大正8年)→白浜温泉自動車株式会社(大正12年)白浜温泉土地建物会社(昭和6年)→白浜温泉土地会社(昭和7年)へと社名を変更しているように、土地と建物経営から温泉と自動車経営へ、そして温泉と土地経営へと鉄道の南下に合わせて事業内容を変化させ、鉄道が到達するまでの間は総合的な開発事業を最も大規模に行っている。
白浜土地の土地開発計画は、大正10年12月に日本の国立公園設置にも深く関わった本多静六によって制作されている*46。本多は、「欧米先進国の各種都市に於ける道路公園広場」を参考に、「実用、衛生、保健、科学の立場と美の立場の両面より見て妥当」な計画として、住宅地60%、公園及遊覧地18%、大温泉浴場・旅館・料理店敷地8%、道路及広場13%の割合で土地区画計画を立てている。白浜土地は、別荘地経営で収益を挙げるため若干宅地面積を拡大したとされるが、土地開発の基本となる道路敷設計画などをほぼ踏襲して土地開発を行った(第2図)。
また本多は、地形的にも類似している当時「東洋第一の海水浴場」と呼ばれた遼東半島膠洲湾青島の海水浴場を参考に、海水浴場としての白良浜の条件の良さを強調し、青島の海水浴場のように洋式脱衣場や水被り場等の諸設備や海岸の洋式ホテルや音楽堂といった施設を整備することを提起する。