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江戸期には、海防の要地であるという理由で、瀬戸村と鉛山村の2村のみが紀州徳川家に属する周参見代官所の支配下におかれ、秘密裏の海軍演習のために歴代の紀州藩領主が計22回も現在の白浜半島に訪れている*35。それ故紀州藩の人々が温泉へと足をのばしたことが推察され、かつての「牟婁の温湯」と考えられている崎の湯も紀州藩儒臣の祇園南海の設定した鉛山七景*36に加えられている。温泉場の状況は、天保の時代を描いたと推察される紀伊続風土紀の鉛山の条に「凡四方温泉のある所多く山渓幽僻の地なるに此地は海浜にありて風景絶勝なれば4方の浴客日に集まり歳に増して今は村中60余戸皆浴客の旅舎となり飲食玩好歌舞の類に至るまで都会の地に羞ざる様になれり」*37町とあり、紀州藩の人々が訪れていたためか、都会の娯楽文化が流入しある程度は活況を呈していたことが伺える。ただ寛永4年の「諸国温泉効能鑑」では「紀州田辺の湯」として西前頭13枚目(全国第32番目)と比較的低位にランクされていること*38、温泉場の名称も統一されず「湯崎温泉」や「鉛山温泉」などの別称があることから、全国的にはさほど著名な温泉場ではなかったと考えられる。

近代に入り、明治の中頃までは阿波や和歌山の地元民が、農閑期に1・2週間の湯治をする地元の温泉場として機能していたことが指摘されるが*39、明治20年に共同汽船が大阪−熱田間、その後明治32年に大阪商船が大阪-田辺間の航路を開始すると、京阪神の都市住民の娯楽空間にも編入されはじめる*40。このころようやく名称も湯崎温泉に統一され、17の旅館と外湯の湯崎七湯を軸とするこの温泉場は、都市とは異なる「素朴な村民」や「平民的家庭的」な旅館が讃えられる一方で、外湯に娯楽設備を備えたり「内湯」を設置する旅館も出はじめており*41、次第に近代化する傾向が見られている。

ただこの温泉が湧出する地域は鉛山温泉の呼称にもあるが如く鉛山村のみであり、半農半漁の寒村であった瀬戸村住民は温泉場の権利を欲し、温泉権を巡って江戸期と明治初期の二度裁判で争っている*42。そのため明治22年の町制施行時に瀬戸鉛山村と合併してからも瀬戸側と鉛山側の対立感情激しく、瀬戸の大地主の芝田与七は明治32年に温泉の人工掘削を試み、瀬戸区に温泉場を創ろうとしていた。この掘削は技術力のなさから失敗したが、ガスの放出から温泉が瀬戸区にも湧くことは確認されており、遊覧地としての可能性を見出した大阪商船の仲介で、御坊の実業家であった小竹岩楠*43が芝田与七から大正7年に開発計画を持ちかけられ近代的開発をはじめることになった。

 

*35 前掲33

*36 銀砂歩(白良濱)、金液泉(崎の湯)、芝雲石(千畳敷)、薬王林(薬師如来像)、平草原、龍口巌、行宮趾(御幸の芝)のことを言う。

*37 前掲33 P.43.

*38 白浜町史編さん委員会『白浜町史本編下巻一」、白浜町、1986。

*39 前掲33 PP.43-44.

*40 明治42年段階で400トン規模の船を就航させていたが、揺れの大きさのため観光旅行に乗る船としては快適ではなかったようである。大正15年に那智丸、牟婁丸(各鋼造1600トン)が就航されてようやく都市住民の利用に耐えうる状態になったと言える。

*41 毛利清雅『湯崎温泉案内』、牟婁新報社、1908、103頁。

*42 前掲33

*43 小竹岩楠は、明治43年に日高郡御坊町に日高電灯株式会社を設立して以来、紀南地方を中心に様々な事業を展開しており、紀南地方の一番の実業家であった

 

 

 

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