特にヘテロトピアの議論から、リゾートという現実の場を考察するために、その他の空間との関係性を問う視点が得られた。そこで近代という時代性を鑑み、異国のイメージとの関係性を軸にリゾートの形成過程を説明する方針を立てたい。
これらの視点からリゾート形成過程を考察するにあたり、本稿では戦前期における南紀・白浜温泉を取り上げる。筆者が注目する異他なる空間との関係性を問うのであれば、異国のイメージとの関係が深い軽井沢のような外国人によって開発の緒がつけられた高原リゾートがまず思い浮かぶ。しかしながら、1920年代のコスモポリタニズムの時機に日本人の手によって開発が始められた海浜・温泉リゾートである白浜は、様々な異国のイメージと伝統的な娯楽の象徴が切り結び「異種混淆の空間」としての境の空間をまさしく創造している上、日本人の地理的想像力とリゾートの関係を知る上でも興味深い事例である。また熱海や別府等の古くからの大温泉地と比べて観光業者の開発の自由度が大きく、より人々のイメージがヴィヴィッドに物質化されていると思われる。
本章では、まずリゾートが他所として社会空間化される過程を異国のイメージとの関係性から描き出すことにする。その変化の節目を交通環境や開発手法の変化に伴う異他性(及び中間性)の変容に求め、1]近代的開発以前の船舶交通期2]近代的開発の始まりと鉄道到達まで3]都市資本の流入と鉄道到達以後の三段階にわけて考察を加える。そしてリゾートの空間は、ステレオタイプ化されたイメージが生産されていること、様々な想像的な他所との結びつきを持って機能すること、そこでの表象のせめぎあいがあり均質でない異種混淆の空間になること、をそれぞれの項で確認する。このように可能な限り動態的にとらえることから、様々な主体にとって魅力ある境の空間として常に文化・社会的に(再)生産されリゾートが形成されていく過程が明らかになると思われる。
(1) 開発前史-湯崎温泉形成まで-
和歌山県の南方にある現在白浜半島と呼ばれる地域(第1図)には温泉場が古くから存在しており、既に日本書紀の有間皇子の条(657年)に「牟婁の温湯」として記載されている*32。この「牟婁の温湯」は「紀の温湯」や「武漏温泉」などの別称で万葉集や続日本書紀にも散見され、斉明、天智、持統、文武の四帝が行幸したように*33、政治文化経済の中心が関西圏にあった奈良時代には著名な温泉場であり、有馬や道後と共に日本三古湯に数えられている*34。
*32 雑賀貞次郎編『白浜・湯崎 温泉叢書 歴史文献篇』、南紀の温泉社、1933、181頁。
*33 雑賀貞次郎『白浜温泉史』、白浜町役場観光課、1961、134頁。
*34 喜田貞吉「史的三名湯」、旅と伝説7、1932。