その一ヶ月後の11月8日、今度は『成都商報』紙上に特別報道として紙面の半分を割き、「奇想天外、真偽つけがたし、“雑交野人”論争起こる」注7との大見出しと、先般公開されたという“雑交野人”の上半身の写真が掲載された。先の報道の追跡取材という形をとり、中国野考会の責任者や、中国科学院の教授に取材している。論調としては、これはいかさまであり、神農架の観光政策の一環だと批判的であった。
同年12月、中国新聞社・中国科学技術探検学会などといったグループが、例の“雑交野人”のいた村を突き止め、その遺骨を北京に送り科学的に鑑定したが、その結果はやはり“野人”との雑種ではあり得ないというものだった注8。
そのVCD発売による世間のリアクションは、それが肯定的なものであれ否定的なものであれ大きかった。また映像自体は未見であっても、新聞報道されたことにより、中国の友人たちも眉唾物としながらではあるが、例の“野人”報道の話に花を咲かせていたものである。とりあえずは、人々の心に「神農架」の三文字を印象づけるには成功したと言えよう。
4] 1998年現在の神農架現地取材
筆者が神農架に入ったのは、VCD発売から約半年後の1998年4月のことである。最初に訪れた神農架林区の人民政府がある松柏鎮には、「野人サウナ・按摩」、「野人娯楽センター(カラオケ)」など、“野人”をその名に冠した施設があった[写真1]]。バスターミナルや、旅館のロビーで見かける観光マップにも、あたかもその存在が自明であるかのように「“野人”活動区」がマーキングされていた。また、神農架の名の由来でもある神話上の皇帝炎帝(=神農氏)を、店の名に冠したナイトクラブなども目にした。旅行社に入り、その看板を見るとツアーコースには、必ず“野人”捜索タイムが設けられているようだった。その旅行社の売店には神農架の動植物が印刷されたトランプや、「神農架」のロゴ入りのTシャツ、帽子や鞄などがショーケースに並んでいた。街の東端には、神農架自然博物館が建設されており、神農架の地形を表現した巨大ジオラマや、動植物を紹介した写真パネル、野生動物の剥製などが展示されていた。