日本財団 図書館


028-2.gif

出自の一つに政治的なものを持ち、また同様の理由で歴史の舞台から退場していこうとした“野人”。しかしそれは世紀末中国で、まったく違う方向から蘇生させられることになる。

 

3. “野人”によるプロモーション展開

1] 観光地化のプロセス

上に見てきたように、神農架の名前を大陸中に知らしめることができたのは、“野人”の存在に負うところが大きい。中国の人々が「神農架」と聞いて想起するのは、「秘境」と「“野人”」であると言っても過言ではない。

長江三峡ダムの建設が決まると、周辺地域は旅行事業発展の必要にせまられ、1992年8月、神農架林区に「木魚旅遊開発区」が設立された。国務院の批准を経て、対外開放される2年前のことである。同開発区は、神農架第二の街、木魚鎮を中心に自然保護区など、当地の観光スポットを一通りカバーできるエリアである。長江沿いの都市や、港町からの交通の便も比較的よく、宜昌市から213キロ、一番近い港へは90キロの距離である。道はほぼ舗装されている。

028-3.gif

1996年5月、同自然保護区内において、「96年湖北リゾート旅行及び神農架国際旅行開幕式」が、同年7月には「神農架六道峡探検旅行開幕式」が開催される。自然保護区内に、“野人”目撃談のパネルや、書籍類、毛髪や石膏型の足跡などを展示する「神農架“野人”夢園」なる資料館が建設されたのもこの年である。これら一連の動きは、三峡ダム建設もさることながら、1997年の中国国際旅遊年、さらに香港返還をも視野に入れ、観光地としての神農架を、内外にアピールする目的があったと思われる。

 

2] メディア展開(ビデオCDの発売)

かようにして進む神農架の観光地化に広告塔として担ぎ出されたのは、かつてこの地を全国に知らしめることにもなった“野人”である。湖北省政府は民間の“野人”調査機関である中国“野人”考察研究会(発足は1981年。以下、中国野考会)に、97年中国旅遊年へ向けてのPRのために、神農架の“野人”に関する書籍・テレビ番組などの制作と、“野人”の展覧館建造の依頼をする。このうち、書籍については上述の1995年の出版ラッシュ、テレビについては同年の中央テレビの番組として、展覧館についても1996年5月に「神農架“野人”夢園」という形で次々と世に送り出されることになる。

028-1.gif

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION