このことから、“野人”騒動が流布した裏側には、何らかの政治的思惑が絡んでいたのではないかというのが、二つ目の考え方である注2。つまり、“野人”のフォークロアを利用することによって、大衆の意識を政治からそらすという目的があったのではないかということである。神農架帯で目撃例が相次いだのはたしかに60〜70年代だが、中央にその情報が伝わり、一般の民衆が“野人”について知るのは、まさにこの1976年なのである。この年以前の目撃情報というのも、1976年以降に始まる聞き取り調査によって初めて明るみに出たものなのである。
筆者は、神農架自然保護区内で今も調査を続ける動物学者の胡振林氏に、直接話を聞くことができたが、彼は1972年12月の段階で湖北省山中にて、雪上に続く謎の巨大な足跡を発見していたという。しかし「当時は“野人”については取り沙汰されてはいなかったので、それが何のものか分からなかった」と証言してくれた注3。そのわずか4年後、国家レベルの調査隊が神農架へ送り込まれる段になって、ようやく「あれは“野人”だったのだと悟った」というのだ。胡氏は1980年の第二次調査隊のメンバーとして“野人”捜索に参加。現在まで自費で捜査活動を行うこととなる。つまり、彼の話から分かるのは、地元の、しかも動物学者であっても、“野人”の二文字を初めて意識したのは1976年であったということである。おそらく開発以来、足跡や謎の影の発見という現象が相次いだのは確かなのだろう、しかしそれを“野人”の二文字で記号化し、一つのイメージをまとめ上げたのはこの年が最初であった、と言っても過言ではない。
同時期に一大ムーブメントとなった“野人”探しは、1980年(米中国交樹立の翌年・四人組裁判が行われた年)に第二次“野人”調査隊(最後の国家レベルの調査隊)を送り込んだのをピークに、急速に終息していった。調査続行を願う研究者や、探検家たちを冷たく突き放すかのように、国は“野人”調査に対しすべての援助をストップしてしまったのである。
注2 中野美代子氏は『中国の妖怪』(1983年、岩波新書)、『孫悟空はサルかな?』(1992年、日本文芸社)などの著書や「『山海経』の世界を俯瞰する」(『ワールド・ミステリー・ツアー13 13]【空想篇】』2000年、同朋舎、所収)において、“野人”をはじめ、中国の妖怪は政治的によみがえってくると指摘している。
注3 拙稿「神農架“雑交野人”を追え! その3〈完結編〉」(『火輪』第8号、2000年、『火輪』発行の会、所収)参照。