2] 伝説
“野人”という、人にあらざる山の住人にまつわる伝説は、古くからある。古代中国の地理書『山海経』は、奇々怪々な動植物に関する情報の宝庫だが、全身に毛の生えた人型の生物についても多くを載せている。戦国時代の詩人、屈原の『楚辞』「九歌」中に「山鬼」なる詩篇があるが、そこでは山に住んで植物を身にまとった“人”について書かれている。屈原の生地は、現在の湖北省秣帰(しき)県。神農架から数十キロしか離れていない長江沿いの町である。清代に編まれた『房県志』(房県は神農架林区と境を接する県)にも、“多毛人”なる記載がある。これらのことから、現代に現れた“野人”は、同じ土地に伝わる“山鬼”・“多毛人”と関連づけて語られることも多い。
また、現代、神農架での目撃証言中にある“野人”の形態の多くも、これらの伝説中の記述と見事な一致を見せている。それを論拠に「神農架にはやはり古代より“野人”がいるのだ」と主張する向きもあるが、むしろ、古来からのイメージに引きずられて対象にそれを投影して見てしまう、ということであろうとも考えられる。
3] 騒動の背景
一連の“野人”騒動を読み解く上で、当時の中国社会がどのような状況に置かれていたか、見ておく必要があろうかと思う。上に見てきたように、神農架が開発され、人間の流入にともなって“野人”の存在が取り沙汰されるのが60年代後半から70年代である。そして、第一回の国家レベルの調査隊が組織されるのが、1976年9月。これはまさに毛沢東が亡くなった時である。その後、文化大革命の責任を負わされる形で四人組が失脚するなど、政治の世界の大転換期であったと言えよう。その様な時期、人々の耳目は政治の中心である北京から遠く離れた内陸の秘境、神農架に引きつけられたのである。
これには二つの解釈が可能である。一つは、四人組の失脚が人民の思想を解放することにつながり、「階級闘争」を進めていた時代にはおそらく実現不可能であった“野人”調査という学術的分野に脚光があてられることになったという考え方である。勿論文革中にあっては、学者などの知識階級は批判の矢面に立たされていたわけであるから、仮に“野人”を調査したくてもかなわぬ望みであったろう。
それにしても、絶妙のタイミングで“野人”騒動が表沙汰になったものである。事態に対する政府の対応も異例なほど迅速であった。1976年5月に神農架林区で中国共産党幹部6人が“野人”を目撃。その報告を北京の中国科学院や『人民日報』社に送る。これが正式な形で中央に伝わった“野人”の第一報である。同年6月中国科学院メンバーが、現地調査に訪れる。それを受け、同年9月23日、中国初の国家レベルの調査隊が組織された。9月9日に毛沢東が逝去してから、わずか二週間後のことである。