競走馬のふるさと案内所の開設で、名馬の所在情報は、より容易に入手されるようになった。平成元年に空港近くに開園したノーザンホースパークは、実質的な経営体である大手牧場の知名度からも、牧場観光者の志向に近いものであり、馬産地観光のエリアを空港のすぐそばまで押し広げることとなった。この立地により、道外から牧場見学の旅の実行を検討する人たちの意識の内で「そのエリアは空港から近く」なった。日高の産地は、こうして、ずいぶん行き易くなってきていた。
馬産地へのファンの旅行動機形成において2度めのエポックとなったオグリキャップの新冠入りは平成3年であるが、この年の初め、中東で湾岸戦争が勃発した。海外渡航が敬遠され、人々の海外旅行プランは延期されたり、国内旅行に替えられたりした。
競馬の人気は、ハイセイコー引退後、北海道観光の人気と歩調を合わせたかのように落ち込んだが、これに歯止めをかけようと、日本中央競馬会(以下JRAと略す)が、女性や若年層を新市場と意識したイメージアップに乗り出した32。結果、ファン体質にもかなり影響を及ぼし、平成に入ると、中央競馬の最大の瞳力について「ギャンブル性」「推理のおもしろさ」「レース自体のおもしろさ」などをしのぎ、それは「馬」であるというファンが6割を占めた33。このようなファン層の拡大が平成競馬ブームの1つの特徴といえる34。
このことと関連するであろうが、このブームのもう1つの特徴として、競馬雑誌が飛躍的に増えた。平成5年までに13誌、続く3年間でさらに6誌という創刊ラッシュである35。
32 昭和61年、イメージアップ活動推進委員会設置。
33 日本中央競馬会(1990)pp.57-59.
34 JRAの戦略さながら、こうしたファン意識が培われたより一般的な社会背景としては、好景気のなか物質的には速やかに満たされるのに比して人々が覚えた、精神的な不満足が推察される。昭和60年以降、学校での「いじめ」問題やペット依存症が顕在化した。液晶型ペット「たまごっち」の流行、広く浅い人間関係を求めポケットベルを駆使する高校生の「ベル友」も続く時期の現象である。多くの人が人的関係の不安を自己のうちに顕在化させ、その対処策を様々にもとめるようになった時期ではなかったか。擬人化されやすいレース場の馬たちは格好の対象でなかったか。これと見いだした馬を強く対人的にとらえることが、明白な意識を伴わないまでも、対処策の一形態として採用されたと推察される。
35 メディアリサーチセンター(1994、1997)に拠る。