しかし、受け手は少なくても、似たような作用は、知人の旅行談からも生じ得る。つまり、草の根レベルの先例伝達である。この場合は、その波及速度こそメディアに比べるべくもないが、事象のニュースヴァリューが下落しマスメディアで扱われなくなっても、継続していく性質のものであろう。しばしば内容は詳細かもしれない。本事例でいえば、ハイセイコーブームが去って、マスメディアで産地へのファン来訪の話が伝えられなくなっても、競馬ファン同士などでなされる産地への旅の話題は前者以上に失われるものではなく、「空想旅行」の機会は提供され続けていた。競馬人気によるファン数の推移により折々の影響力に差はあるにしても、このレベルでの旅の先例伝達(=空想旅行機会の付与)は、ハイセイコー期以降継続して当該ツーリズムの背景にあった「旅へのまなざし(思いつき)」を形成する力である。
また、「旅の実行のしやすさ」という観点からは、この時期の旅について、以下に分析される。既に述べたように、交通費をはじめ当時の旅行条件は、特に経済的に厳しい。しかし、学生などの単身者は、通常、個人が自分の旅費を持つから、家族旅行などに比べ、交通費などの旅行代価に対する価格弾力性が小さい。また、「みんなが見に行きたい」ハイセイコーのような馬が目的でないと、同行者の同意が得られづらくなるが、競馬ファン同士の旅では、各自ひいきの馬が別であっても、それらを順に訪ねることで同行者間同意がなされる。この結果、彼らは地域に数日滞在することになる。この時点で地域には観光者向けの施設はほとんどないが、宿に困ることはなかった。港や駅前の旅館が、都市の遠い当該地域であったからこそモータリゼイションを経てなお存立していたからである31。
ハイセイコー見学ブームの過熱の後、少数のコアな競馬ファンのみの時期への移行、その後の緩やかながら増加へ転じた流れ、牧場地域内で複数の牧場を周遊するパターンヘの転換があった理由は、以上から説明されよう。
(4) 昭和60年代以降における背景
昭和60年代に入る頃、景気は上向きであった。北海道観光は、昭和50年代後半を通じ、スキー・ツアー・パックの導入成功や、テレビドラマで注目された富良野など、新しい資源発掘がなって、徐々に人気を回復し始めていた(表2)。たくぎん総合研究所(1988)は、道内における道外客の交通手段にみられる近年(当時)の特徴を、「車で自由に行動するマイウェイ観光の周遊客が多いこと」と述べた。都会の学生でも日常的に車を使う者が増えていた。海外旅行が珍しくなくなり、特に若者において、気軽に北海道レンタカー旅行に旅発つフットワークがあった。勤労者世帯当り可処分所得に対する東京一札幌航空運賃も、昭和50年の8.4%から、昭和60年で6.8%、平成3年には5.1%まで下がっている。