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江戸時代の旅について橋本(1997)は、当時における道中案内書や旅を題材とした滑稽本、双六などが、多く庶民であるその読み手において「空想旅行を楽しむ、という代償的機能」や「より具体的な“旅行意欲”として動機づける役割」を果たしていたであろうと述べているが30、ここでも同じことがいえるであろう。傑出したアイドル馬が引退すると、「追跡報道」が多発する。その結果、牧場の映像に触発された「空想旅行」の機会が増え、多くの人々が、その次の段階としての「旅の検討」へ進んだと推察される。視聴率の高いTVドラマの舞台となった場所にしばしば観光数が急増するのと、同様な現象である。

 

(2) 昭和50年代における経済距離、時間距離と付帯価値

なかなか行けないような旅の実行に際しては、目的に対するより強力なパッションや付帯価値がもとめられる。遠隔地旅行ほど広域をまわる傾向(鈴木1966、橋本1997)も、これと表裏である。ハイセイコーは、昭和48年に人気者となった。レースの引退・牧場入りは昭和50年であり、第1次オイルショック直後である。航空料金の値上げも重なり、遠隔地への旅行が志向され易い時期とは言えない。

しかし、これに先立つ10年は、北海道観光がクローズアップされた時期である。札幌五輪にむけて注目が集まり、札幌千歳間を中心にインフラ整備が急速に進んだ他、知床ブームを迎え、「カニ族」が目立った。昭和49年は国鉄の北海道周遊券が24万7千枚の売上を記録している。そして、ハイセイコーが新冠町へ戻る直前といっていい同年末、日本レコード大賞を森進一の「襟裳岬」が受賞していた。つまり、当時の日高周辺の観光情報量は少ないが、襟裳岬だけは、地図さえ開けば容易にその文字が目に入るネームバリューがあった。ここに、双方が「旬」にある強力なタッグが成り立つ。「ハイセイコーも襟裳岬も見られる、うん、なかなかいい考えだ」という納得をはさんで決意された旅が成立する。しかし、「旬」だけに、状況は長く持続するものではない。

 

(3) 少数のマニアの緩やかな増加、複数の馬への来訪の背景

昭和51年に、前年の航空機関に続き、国鉄も大幅な運賃値上げを行った。北海道観光の人気は急速に冷え込み、一方で、昭和50年代は競馬人気も下降し、参加人口を減じている。こうした状況は、当該ツーリズムにおいて、入込み規模を継続しての発展を阻んだ。

この時期の旅行事例は限られたものであったが、いずれもかなりマニアックな競馬ファンで、旅行当時、学生であった。

本章(1)で述べたように、マスメディアが動いた場合、「空想旅行」の機会はより多くの人に与えられる。

 

30 橋本(1997)p.66.

 

 

 

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