競走馬の代価に対する効用は、このような複合的なものである。牧場にいる馬への訪問も、そもそもこのような「馬を持つレジャー」のうちにあり、馬主の「旦那衆」やその縁者に提供された余興だったと考えられる。
大衆レジャーの側にいた競馬ファンが垣根を越えて、ここに立ち混じるようになったのは、昭和50年であった。
(2) 昭和50年代1] ハイセイコー見学の盛況とその後
昭和49年、当時の競馬ブームの立役者であるハイセイコーが引退し、新冠町の明和牧場で種牡馬として繋養されることになった。同牧場で翌年1月に行われた種牡馬展示会には多くのファンが立ち混じり、氷点下7度の寒さのなか、4,000人が訪れたという13。
新聞記事やニュースを頼りに、全国から大勢の人が明和牧場を訪れた。本来は馬の世話をする厩務員が、観光バスを含む車両の駐車整理にあたった。牧柵の外側で人混みと化した来訪者が、他者の頭越しに馬を見られるよう、立ち見台が設置された。敷地内に設営された売店では、ハイセイコーの名を刻んだ記念バッジや蹄鉄を加工した土産品などが飛ぶように売れた。『現代風俗史年表』には、「『ハイセイコーちゃん、元気ですか』と子供が手紙を書いた競走馬はこれが初めて」との記述がある14。全国から多く寄せられたこのような手紙に対し、牧場では返事が手書きで書ききれず、葉書にスタンプを押して「ハイセイコーのお返事」を作成した。
(3) 昭和50年代2] マニア度の強い少数の観光者の来訪
その後も、夏季観光シーズンに客足が途絶えることはなかったが、牧場には徐々に静けさが戻った。ハイセイコーとその牧場は「みどころ」として一般的な観光ガイドブックに記載されるようになり、「北海道へ行くのでハイセイコーも見る」人も、二次的に幾らか生じたはずだ。しかし、「馬に会うために北海道へ来る」人は減少し、ごく少数のファンだけになった。静内の宿の女主人が、早稲田大学の競馬サークルがグループで来るようになったのはこの頃からではなかったかと記憶していた。彼らは何年か続けて訪ねた。これとは別に、筆者はある旅行経験者に会った。やはり、学生時分に訪ねていた。牧場で自分と同じ様なファンの観光者と居合わせたことはなかったという。この他、昭和54年夏にイットーという馬を訪ねた人のエッセイが近年の雑誌にある15。当時、大学生の著者が、同級生と2人で電車・徒歩による日高の旅をし、襟裳岬ユースホステルからバスと列車を乗り継いで荻伏駅に行き、そこからイットーのいる牧場へ歩く途中、目的地である牧場の車に偶然拾われる、というものだ。宿泊地から、襟裳岬探勝が旅程に組み入れられていたことがわかる。目的の馬がハイセイコーでないことも留意したい。
現地の人々の記憶にこの頃のツーリストの印象は総じて薄く、関連するような記録も、この後しばらく見あたらない16。
13 産経新聞社(2000)に拠る。展示会は、春の種付けシーズンに先立ち、生産者に種牡馬をじかに見せるために行われる。4,000人は関係者も含むが、当時の展示会は数百人規模でも大入りだった。
14 世相風俗観察会編(1986)p.255.
15 伊予田翔(1995)
16 昭和59年度以降、静内町観光統計で町内の「牧場見学」人数がある。59年度は3225人。