理事長 オペラを書かれたことがなかった三善先生にということは、ある意味で冒険だったのではないでしょうか。
遠山 三善さんとオペラということを考えれば、いろいろな見方があるでしょうが、それだけに楽しみなわけで、三善さんは非常な才能を持った方ですからね。オペラという形式の中だって、すぐれた作品ができるってことは誰でも予想していたことだと思いますね。
理事長 そして三善先生が、脚本家として高橋睦郎先生をご指名されて、詩人である高橋先生の磨き抜かれた言葉というものができあがってきたわけですね。
遠山 高橋さんの詩的な才能を三善さんは期待されたと思うんですが、しかし、オペラの台本という観点からいえば問題があったと言えなくはないわけですし、そのまま使えなかったというのは仕方なかったと思います。
理事長 それで、高橋先生も上演台本という形に書きなおしをされて…
遠山 支倉常長の生涯というものはそんなにこまかくわかっているわけじゃないですね。そこに台本作家としては、むずかしさもあったかもしれない。いわゆる叙事的なものというよりも、なんといったらいいのか、心理的なもの、あるいは情景的なものというか、そういうところに重きをおいて書いていったということになるんでしょうね。ですから、一般の、いま日本でつくられているような創作オペラから見たら多少異色のものという感じは、私もするわけですよね。だから一般的な意味でオペラとして成功したかどうかとか、効果的かということからいえば、いろいろ考え方、観方はありうるだろうと思うんだけど、しかしそういうことを超えて、音楽が非常に立派な音楽ですからね。あれだけ立派な音楽である以上、高い評価を受けるのは当然のことだと思いますね。
自立する言葉、自立する音楽
理事長 実は、今日開かれた記者会見(7月17日・14時〜 東京文化会館)の席で、外山雄三先生が「1時間強の作品だけれど、指揮をするのは精一杯だった」とおっしゃっています。
遠山 そういう感じはしますね。聴いているほうだって精一杯なんだから。
オペラっていうのは、ある意味じゃ大衆的な形式なんですね。誰でも楽しめるように書くということで、作曲家のほうでもわかりやすい音楽を書くとかいうことは、普通にあるわけですね。だけど三善さんの場合、そういうことを考えない。精一杯に自分の書きたいことを書いておられる。妥協はない。厳しい音楽ですよね。だから、オペラとして楽しめなかったという声があったかもしれない。あっても仕方がない…。
理事長 厳しい時代にちょうどいいという声もありました。これまで浮かれた時代だったから、厳しい作品が求められていた。ちょうど、タイミングが良かったのかなという気もいたします。
遠山 聴いていて私も思ったんだけど、これはオペラには違いないけど、合唱が多いとか、音楽が自立した厳しさを持っているということがあって、オペラというよりカンタータに近いような面もあったと思います。
理事長 10年前だったら、このような感銘を受けられたかどうか…。伊達政宗の命令によって通商を求めてヨーロッパに渡りながら、徳川幕府の禁教令によって帰国後の消息も定かでないままこの世を去らなければならなかった常長の運命が、リストラの時代、サラリーマンの心理、現代人の胸に痛切に迫ってくる。そんな面からの評価もあったのではないかなとも思っています。
遠山 そういうこともあるかもしれませんね。
いま、地方でオペラをつくるという動きはかなり盛んなわけですよね。いろいろなところで、いろいろな作品ができて、成功したものもあり、それほどでないものもあるかもしれない。けれども、今回の場合、仙台の取り組み方というものもたいへん大きな力だったと思います。初演から仙台と東京でやったとか、すぐに再演するとか、作品を大切にしていこうという姿勢が仙台にあったということは幸いだったと思うんですね。