1990年に仙台市から、支倉常長を主題とするオペラの作曲を打診されたとき、その仕事に向かう自分もあり得るかと思った。約40年前モノ・オペラの作曲を途中で断念してからの私は、自分がオペラを作曲することはないだろうと、少し意志的に、考えていた。
断念したオペラは、1956〜57年の冬、パリから100キロほどのロワイオーモンという森の中にある16世紀の僧院に滞在して書きかけたもので、胎児の自殺というテーマだった。今思うと、中学生時代に読んだ芥川龍之介の「河童」が意識の下敷きにあったのだろうが、リブレット(台本)は自分で書き、室内オケとソプラノのためのシアター・ピースのようなものだった。声楽のためにはそれまでに小さい歌曲集を書いただけだったが、中学時代から演劇と関わっていたことがこの試みの動機だったかもしれない。
春に僧院を去る時、はっきりと断念していたわけではなかったが、そのままデッサンを中断していた夏に、チューリッヒでシェーンベルクの《モーゼとアロン》の上演を観る機会があって、自分のオペラ作曲がはかなく感じられた。《モーゼ》はオラトリオ・オペラなのだろうが、客席に大胆に張り出す舞台を使い、音楽の進行とともにアロンの幻覚の象徴としての巨大な虎を舞台中央に構築してゆくドラマ展開に圧倒された。
3年間の留学中に学んだことはただ一つある。当たり前のことだが、自分は(日本から見ての)外国人ではない、ということだった。それなのに、何故ソナタなどを書くことを勉強するのか解らなくなって、私は日本に帰ってきた。モノ・オペラの断念は、きっとこのこととも関連がある。あのモーゼ兄弟のように、旧約聖書をめぐって精神の相克を語ることは、ヨーロッパ人の日常と深く通底しているのだろう。それは、私には、無い。それが有るところにシェーンベルクの心身は在り、その心身からあの作品の音と言葉は生まれた。そのような営みとしてのオペラ作曲が、どのように私の仕事になり得るだろうか。それが不明なままに、私はただオペラ作曲との隔たりだけを自覚し続けてきたのだった。
しかし、その帰国後の約40年間に、二つのことを意識した。一つは、音楽も母国語の所産だということで、これは声楽を用いない音楽の作曲でも実感し、実践できることだった。もう一つは、舞台というものをもう一度、オペラとか演劇、舞踏、演奏などという型式から解放し、人間の等身大の営みの意味付ける時空間として考え直したい、ということだった。ここにはギリシャ語の「ポイエーシス」(詩法)という言葉が思い浮かぶ。言葉、所作、感情の質と形、歌の衝動、慣習や集団幻想など、舞台を意味付けるものは個々人にも共同体にも豊かに脈絡しているのではないか。この考えが、もしかすると日本には日本のオペラも有り得るのではないか、という気持ちにつながっていた。そう思っていたところに仙台市の打診があった。
それまでに高橋睦郎さんと、「オペラでないオペラ」について語り合っていた。どのように「オペラでない」のか、具体的な核を持たない会話ではあったが、気持ちは響き合っていたと思う。高橋さんは脚本の執筆を諾い、2年後に脚本《遠い帆》を完成した。1994年、それは上梓され、私はその作曲に向かった。
1996年、私から高橋さんにリブレット構成上の私案を諮り、高橋さんが対案を示して下さった。それは高橋さんご自身の脚本《遠い帆》から生み出されるデュプリカシオン(複写像)の一つであろう。文字の黙読と朗読、音の歌唱と聴音は、いずれもがそれぞれに想像への違った経路や時間を持っているから、文字の秩序をそのまま音を媒体とする仕事に移すことはできない。私案と対案はそれぞれのシニフィアン(意味を与えるもの)の世界からリブレットという作品以前の「間テキスト」を探ろうとするものだった。そして、この努力こそが、今思えば、私のオペラ作曲のすべてだった。