日本財団 図書館


この概念の導入によりまして、日本は海洋秩序に対する伝統的な考え方から、国際社会の多様な海洋利害に対応した考え方への転換を求められるようになったと言うことができます。

もちろん、この200海里経済水域は、先進諸国の側から見れば、どちらかといえば探査、開発だけではなくて、管理、保存に重点を置く必要ということも取り入れられております。しかし、200海里水域の概念は、日本以外の海洋諸国にはおおむね受け入れられましたものの、当初、日本は、積極的に反対を表明した唯一の海洋国でありました。こういった日本の姿勢は、海洋の自由を主張してきたこれまでの日本の立場の延長上にあるものというふうにとらえることができますが、変化を続ける国際社会構造に対する認識におきましても、また、かつて12海里漁業水域に対する日本の対応がそうであったように、国際ルールというものがいかに生成し発展してくるかということについての見方におきましても、やや柔軟性に欠けるものがあったと言わざるを得ません。さらにまた、とりあえずは国内漁業界の利害と心理に配慮しておいて、こうした世界的趨勢にさからった態度は、いずれは日本としても転換せざるを得なくなるのだから、そのときは外圧ということをよりどころとして政策転換を図ればよいとする外交姿勢もあったかと思います。

だが、間もなく日本も200海里水域を設定せざるを得なくなってまいります。1976年にアメリカ、ソ連、EC諸国などの先進国も200海里漁業水域を設定して、特にソ連が自国の漁業水域から日本漁船を締め出し始めたために、国内の漁業者利益の早急な保護が求められまして、1977年に漁業水域暫定措置法を制定して、ソ連と同じ土俵の上で交渉することで漁業協定の締結を進めたのであります。

1977年という年はまた、日本が従来の伝統的な領海3海里主義の立場を放棄して12海里に転換した画期的な年でもありまして、同年、初めて領海法を設定して12海里を採用するとともに、津軽海峡などの日本の5つの特定海域については従来どおりの3海里のままに凍結したのであります。12海里になぜ移行したかというその直接的な理由は、日本近海に他国、特にソ連の漁船が大量に進出しまして、沿岸漁業への影響、あるいは漁船、漁具への損害が多発して、迅速な対応が迫られたからであります。

こうして見ますと、海洋法と日本の歴史的な長い間のかかわり合いの中で、漁業問題の占める割合はかなり高いということが言えると思います。伝統的な海洋自由といいますか、漁業自由の原則を遵守する明治以来の姿勢に転換を迫ったのは、第2次大戦後の世界的な海洋秩序の変革に根差すということは言うまでもありませんけれども、その直接的な契機は、一方で日本の遠洋漁業が他国の12海里領海や200海里漁業水域から次々に排除される反面、他方で日本近海への他国漁船団の進出にも対処せざるを得ないという事態に当面して、日本もまた沿岸国としての立場にあることを意識せざるを得なくなったからであります。

海上の交通問題も常に我が国の関心事ではありましたけれども、航行の自由を標榜する日本の立場というのは、軍艦と商船を区別して取り扱いを別にすべきだという問題は別といたしまして、一般に先進国、途上国ともに国際交通、コミュニケーションの社会的な価値を共有する限りにおいて、漁業問題ほどの鋭い対立を経験しませんでした。けれども、我が国の国際海峡の通航権問題に見られるように、日本もまた世界に飛躍する海運国であるとともに、外国船舶、特に外国軍艦によって通られる沿岸国の立場にあることが明らかになりました。こうして、漁業、海運ともに日本も沿岸国の管轄権の拡大という世界的な趨勢に巻き込まれていくわけであります。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION