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2. 第二次世界大戦後から国連海洋法条約の採択まで

さて、第2次大戦直後のアメリカによる海洋宣言はその後の国際海洋秩序の変動に非常に大きな影響を与えました。1945年の「トルーマン宣言」は、自国の管轄権を公海部分にまで拡張することを主張したものでありますが、これは一方で、領海を越える公海の下にある大陸棚の海底とその地下の鉱物資源を開発する沿岸国の排他的権利を主張すると同時に、沿岸国が設定する「保存水域」の中で第三国が漁業活動を行うことを資源保存の理由で阻止しようとする政策に基づいております。こういう宣言を発した一因には、やはり日本との漁業問題があったのであります。1936年(昭和11年)以降の日本によるアラスカ沖でのサケ漁業が沿岸漁業に及ぼす影響についてアメリカは非常に危惧をいたしまして、戦前に停止させた日本漁業の戦後における再開を制限するためにこのような宣言を出したのであります。

さらに、1953年に発効しました日米加北太平洋漁業条約(1993年失効)に基づきまして、条約以前に漁業実績のない魚種に関しては自発的に漁獲を抑制しようという、いわゆる「抑止の原則」と言われておりますけれども、これによって結果的には日本の主張である公海自由の原則のもとでの漁業権利の自由な行使が抑制されました。この点につきまして、学者によっては国際協力による資源保存という新しい考え方を日本が受け入れた一例なのだと評価する向きもあります。

他方、トルーマン宣言の影響は他の諸国に波及いたしますが、その流れの中で1952年に韓国が「李承晩ライン」を設定しまして、広大な周辺海域に主権宣言を行ったときに、日本はこれを海洋自由の原則を破壊するものとして抗議いたしました。当時は沿岸国による沖合資源への管轄権拡大の動きは、まだ国際社会の一般的承認を得るまでには至りませんでしたけれども、資源保存や配分を求める沿岸国の主張が一方ではあり、他方、日本のように遠洋漁業や外航海運の利益を守ろうとする諸国との対立が続きました。例えば、1953年9月にオーストラリアが大陸棚宣言を行ったときに、真珠貝漁業へのオーストラリアによる主権的権利の主張に対して、日本は戦前からの漁業実績をもって抗議して、両国間の紛争を招いております。

1958年の第1次国連海洋法会議の結果、ジュネーブ海洋法四条約と呼ばれる領海条約、公海条約、大陸棚条約、公海生物資源保存条約の4つの条約が採択され、日本は領海条約と公海条約の2つの条約のみを批准いたしましたけれども、この会議で日本は、領海の幅に関しては、やはり漁業上の利害から「狭い領海」を主張しましたが、12海里案を提示する国が多かったということもありまして、一時は妥協案としてイギリスの6海里提案に賛成する旨を表明したこともあります。

また、大陸棚につきましては、日本は西ドイツなどとともに大陸棚制度自体に対する批判を展開いたしまして、現行法上、公海の海底を開発することは自由であると主張しまして、その独占を沿岸国に付与する制度には納得できない、という旨を表明しております。それからまた、これは多数の国の賛同を得られなかったのでありますが、エビやカニなどの定着性魚種、大陸棚の表層に定着して生活している魚種を含むそういう生物資源に対する沿岸国の権利を否定しまして、鉱物資源に対する権利のみを大陸棚に認めるという立場をとったのであります。

 

 

 

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