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海洋法と日本

―回顧と展望―

栗林忠男

 

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栗林でございます。

「海洋法と日本―回顧と展望―」という少々大げさな題ではございますが、これまでの海洋法の大まかな流れと、それに対して日本がどのように対応したのかということを振り返りまして、そして現在、日本が当面しております具体的な問題、課題の幾つかをご紹介して、将来への若干の見解を述べさせていただこうということでございます。

 

1. 開国から第2次世界大戦終了まで

開国から第2次世界大戦終了までのことについて述べますと、日本は、江戸末期の開国の時点で初めて、当時は万国公法と言っていた国際法に接することになるわけです。当初は、海に関する国際法も含めましてヨーロッパの国際法の知識を吸収し、かつ実践することに努めたのでありますが、1870年(明治3年)に日本としては初めて太政官布告によって中立宣言を発し、これは当時開かれましたプロシア・フランスの普仏戦争に際して、日本は中立国であるということを宣言するために中立宣言を出したわけですが、このときに日本の領海を3海里と宣言しました。これがまず海洋法についての国家実行であります。

さらに1911年(明治44年)になりますと、ロシアが黒龍江周辺の漁業に関する法律を公布いたしまして、12海里の一種の漁業独占水域を設定いたしました際に、日本は領海3海里を主張して抗議を行っております。また、ロシア革命によって新たに共産政権のソ連政府が誕生したわけでありますけれども、ソ連政府は領海12海里を主張いたしましたが、そのときもソ連による日本漁船の拿捕事件と関連いたしまして、3海里から12海里までの海上で日本漁船を拿捕することがないように求めるという具合に、その後も外国との関係におきまして領海3海里の立場を反復主張しております。

その後、1930年(昭和5年)のハーグ国際法典編纂会議で英国等とともに領海3海里のみを日本は主張したのでありますが、なぜこの領海3海里が根拠があるのかという点につきましては、大多数の国の国内法や実行、判例、あるいは海に関する条約で認められているという点に主張の根拠を置いておりまして、領海の幅はすべての国民にとって海洋使用の自由と両立するように狭く定められなければならないという主張をしております。そして、歴史的湾や群島のような場合は例外として、国家の慣行であるとか地理的な形状といった特殊事情を理由とする領海の拡張は絶対認めることはできないという立場をとっております。特に漁業資源との関連におきまして、日本は領海を3海里以上に拡大すべきであるという考え方は、沿岸から3海里以上の範囲まで外国人の漁業その他の採集を禁止して、その利益を沿岸国の国民に独占させるものにほかならない、という非難をしております。

 

 

 

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