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アメリカがこのような形で、いわゆる「囲い込み運動」を始めたら、他の国もこれに加わりました。1945年こそが、今ある海洋法の第一歩であったと言えるだろうと思います。

連邦政府と州政府の間には、誰が管轄権を持つかについては多くの争いがありました。州政府のほうも一緒になって最高裁に訴えました。そして少なくとも3海里までの資源については州政府が管轄を持つということであります。これは1953年に、Submerged Lands Actというのが導入されました。これは沿岸法定海里内における海底の資源は州政府が持つということであります。そのほかにいくつかの法律について書いてありますけれども、これは、オフショアの石油・ガスについて書いてあります。

第1回国連海洋法会議が1958年に始まりました。そしてまた、アメリカも他の国も、やはりこれに対しては、もともと領海の問題について、管轄権の問題から参加したのだと思います。

1962年に大変重要な本が書かれました。レイチェル・カーソン女史が書いた『沈黙の春』というものでありまして、これは早期警鐘だったと見ていいでしょうか。環境に対する問題、経済開発が環境に及ぼす問題に対して警告を発したのであります。特に殺虫類、そしてまたそのほかの問題について動議をいたしました。少なくともこれは間接的な形で沿岸それから海洋政策を決定する人たちに対して影響を及ぼしたと思います。

1965年には、やはり総合的な沿岸管理ということがよく話されるようになりました。1965年にカリフォルニア州、連邦政府ではなくてカリフォルニア州という大きな州が、最初の沿岸管理プログラムを導入いたしました。これはやはり石油の開発に対する懸念があったからであります。それから1960年代にいろいろな活動が行われましたけれども、国務省が3海里から12海里を米国の漁業専管水域とするということを設定いたしまして、これを公式に表明しました。また、1966年にナショナル・シー・グラント・プログラムが導入されました。このプログラムは、応用された海洋科学、そしてまた海洋資源開発に関しての教育や研究を行うためのカレッジ・プログラムでありました。

さて1966年、また新しい法律が導入されております。Marine Resources and Engineering Development Actでありまして、これが非常に大きな影響を開発に対して及ぼしております。また、海洋政策に対しても影響を及ぼした法律であります。すなわちこの法律によりまして、委員会を設立することになったわけであります。委員会を設立することによって海洋資源の利用について勉強するということです。これにより、「ストラットン委員会」が1966年に導入され、3年間委員会を続けました。これがもとになりまして、政策の決定が行われるようになったわけであります。ここで大事なことは、1966年に資源保護、環境保護ということは、厚い報告書の中でまったく一語だに触れられていないのです。

しかし政策が変わりました。サンタ・バーバラの原油流出事故が起こったのです。1969年のことでありました。これによって150マイル、カリフォルニア沿岸が流出原油によって汚染されて、環境問題に対する認識を高めたのが、この1969年のサンタ・バーバラの原油流出事故であります。

1969年には「わが国と海洋」という報告が出されております。これはアメリカの海洋政策にとって大変重要な報告だったと考えております。

 

 

 

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