そのことを今、子どもたちにも話をしているんですね。彼女の生き方、とってもすてきでした。「私はもう 100%生きた。最後、癌で亡くなるというのはとてもしあわせなことだ」、そういうふうにして亡くなる人もいるんだよって。私が入院していたときに、死というのはもう癌病棟といってもいいようなところですから、毎日あります。隣合わせです。でも、なんかまるでなかったことのようにそそくさと処理をされてしまうんですね。そういうのを見ていたら、「死というのはあったらいけないことなのかしら。死というのは敗北なのかしら」とずっと思っていました。でも、今、私の通っています堂園メディカルハウス、ホスピス機能をもった未承認の施設なんですが、19床しかないのです。その医師との出会いというのは私の『知りたがりやの癌患者』や、『死を学ぶ子供たち』を読んでいただければおわかりですけど、私の死に対する考え方をほんとに根本から変えた出会いでした。
だから、この先生に看取ってもらえるんだったら死は怖くないなと思えるぐらいの信頼しているんですけれども、いちばん癒してもらえたのは、そこのホスピスで出会った同じ患者仲間でした。死に直面していて、信仰をもっている人もいますけど、ほとんどの人が、「一応浄土真宗なんだけど、滅多にお寺なんか法事のときぐらいしか行かないのよね」ていうような感じのごくごく普通の人がしっかり自分の最後の時間を自分なりに見つめて、本当に豊かな時間をもって、最後までまわりの人に感謝の言葉を告げていかれるその姿を見ていて、「あ、死っていうのは普通のことなんだ。あたりまえのことなんだ。誰だってああいうふうに逝っているだ」ということを学ばせてもらいました。
そのホスピスに出会うまでは、必死の思いで図書館に通いました。私よりも前に死に直面した人がどんな思いでこの時間を過ごしたのかを知ろうと思ったからです。もちろん家族はいろんな意味で精神的に支えてくれました。それでも家族はそういうのに向き合ったことはないわけですよ。だから、本当にそういうときに支えてくれるのは、私よりも前に先輩として死に直面した人たちが本に書き残してくれた言葉、文章、思い、そういうのに触れることによってずい分いろんなことを教えてもらったんですね。
もちろん大人の本だけではなくて、『忘れられない贈り物』の中に、「アナグマは死ぬことを少しも恐れていません」というのが出てくるんですね。「私はこんなに恐れているのに、なんでこのアナグマは死を恐れてないのかしら?」と考えたんですね。『100万回も生きたネコ』が 100万回も生きた後に、最後とうとう死んでしまった。なんでネコは最後生き返らなかったんだろうと必死に考えました。
そういうなかからいろんなことを学びました。先ほどの遠藤先生の講演のなかにも、「人は生きたようにしか死ねない」というふうな言葉が出てきました。私の今の主治医、その心から敬愛している堂園晴彦先生が、じつはしょっちゅう口にされる言葉なんですね。でも、私はその言葉にはじつは反発しているんです(笑)。ちょっと違うんじゃないかな。つまり、人間というのは、いつだって変われる存在だっていうふうに思っているんです。私自身は「癌なんか本人に告げるなんてとんでもない。しかも生きる時間の少ない人にそういうことを告げるなんてかわいそうなことだ」というふうにずっと思ってました。でも、その私がそういう人にこそ本当のことを告げてほしいというので、いろんなところに行ってしゃべったり本に書いたりしているんですが、それは私自身が癌に直面することで変わってきたからなんですね。やっぱり人間はいつだって変われる、いつだって学べる、いつだって成長できる、誰だってそういう可能性を秘めているということをぜひ知ってほしいなという気がするのですね。