同じご質問で千原さんも。
千原 宗教という言葉を使うときに非常に問題があると思うんです。いわゆる組織としての宗教ということを考える方がいますが、本当にそれでいいだろうかということ。それと今、大下さんがおっしゃったように、人が生きていく、そしてやがて死を迎えるときに、「どうして」ということを必ずみんな考えるんですね。その「どうして」から出発するとこに宗教が出てくるんだろうと。「こういうかたちの宗教があるから、これに」というのはむしろ違うのかなと思います。
同じキリスト教とおっしゃっている方でも、死に対するとらえ方はずい分違う場合があります。その宗派によって教育のされ方が違うということも出てくると思います。
ですから、形の宗教というよりも、信仰というかたちで考えているべきだろうというふうに思っています。
南 命は与えられるもので、お返しするという信仰という意味では、大下さんの仏教も、千原さんのキリスト教の病院も、その大きな流れの意味では同じような、共通するものもございますね、概念として。
千原 あるだろうと思います。
それともう一つ、宗教的な援助ということを考えた場合に、注意すべきこととして私が考えておりますのは、やはり一方的な提供ということではないと思いますね。求められる状況をいかにつくるか。そして求められたときにいかに提供するかということだと思うんです。
歴史的に見て、キリスト教徒をそこらへんは世界的規模で見ますと、かなり間違ったことをやっていると、私は感じております。ですから、「今、この人に何が必要なのか」「求められているのか」、広い意味でのインフォームドコンセントかもわかりませんが。
南 ええ、そうですね。わかりました。ありがとうございました。
お待たせしました、種村さん、ちょっと少し視点を変えて伺いたいと思うんですが、種村さんがこのなかでは唯一、本当にご自分自身の死というものと向き合われたご経験、いやなことを思いだしていただくのはちょっとお気の毒なんですが、そのときのことを考えて今がありますけれども、客観的に当時のことを考えて、やっぱり何かに助けてほしい、やっぱり信仰なのか、家族なのか、なにかそのへんで皆さん聞きたいと思うんですけれどもいかがでしょうか。
種村 はい。たしかに死に直面したときに信仰を持っていればかなり救われる部分があると思っています。私の『死を学ぶ子どもたち』の本のなかにも書かせていただきましたが、私と同じ時期に乳癌を患って、30年来教会に通いつづけている敬虔なクリスチャンの友人がおりました。彼女は死の1ヶ月前、「私は癌になってとってもよかった」て言ってました。「とってもしあわせだった」と言ってました。「私は死ぬのは怖くない」と言ってました。「どうしてかっていうと、私たちクリスチャンにとったら死ぬ日というのは、イエスキリストが天から迎えにきてくれる喜びの日なんだ」と言っていたんですね。「へえー」て、私はそういう信仰がありませんので、れっきとした大人の方で本当に心底そう言ってらっしゃるのを初めてお聞きしましたのでたいへん驚きました。