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死期が迫って、お子さんの結婚式が間に合わない、大急ぎウェディングドレスだけでも見たい、そしてできれば簡単な式でもしてほしいという場合、そういうこともホスピスは可能なわけです。

そういうことで、わりとフリーに動いているかなというふうに思っています。

南 ありがとうございました。補足発言ということでひと回りさせていただこうかと思いましたら、ちょっと宗教のお話になりましたので、来てくださった方のなかからのご質問状を紹介いたします。「死と宗教は切り離せないと思いますが、どのように考えたらよいのか、なにか参考になることを聞きたい」というような声がいくつかございました。57歳の男性の方、それから60歳の男性の方も同じようなご質問です。「死」と「宗教」というのが非常に大きな一つのテーマだと思います。大下さん、そのお話がちょうど出ましたところですので伺いますけれども、先ほどおっしゃったようなサービスをしていること自体があまり知られていないということですが、それはどこでもやっているわけではございませんよね。

大下 そうですね、まだ後発といいますかね、仏教界ではまだ始まったばかりだと思います。キリスト教ではあると思いますけど、仏教でも少しずつ若手の坊さん中心にネットワークをつくりながらやっております。

南 なかなか端的にはお答えになれないと思うんですけれども、「死と宗教は切り離せないと思いますが、なにか参考になるアドバイスをいただけないか」という質問なんですけれども。

大下 はじめは信仰をもってない人とかかわることがけっこう多いんですけれども、そのスピリチュアルな局面というのは、いわゆる宗教をもっているからスピリチュアルな部分が高められるのかというとそうでもないですね。人が自分に訪れる死と向き合ったときにはじめて自分のなかにある深い部分に対しての目覚めというんでしょうか、意識が出てくる。それを掘り下げていくと「自分の命はどこへいくのか」とか、あるいは絶対者との関係というか、超越者との関係というようなところまで心が変化していく。変化されない人もいますけど、基本的に末期の方々とずっとかかわってきますと人間というものは成長されて、末期の寸前まで、いわゆる死の寸前まで成長されるものをもっていますので、そういう意味において宗教というのは一つの宗教的な枠、キリスト教ならキリスト教、あるいは仏教なら仏教というもののもっている生命観とか死生観でかかわっていくことができると思います。

しかし、そういうものがなくても日本人にいちばん多いのが、いわゆる自然に帰っていきたい、山に帰っていきたい、あるいはふるさとの野山のほうにいきたいという、これはキリスト教の神様のところへ帰っていくのは、ちょっと違う発想なんですね。つまり日本人の死生観という生命感の背景にあるものは、1300年前に聖徳太子が日本で最初にいわゆるホスピス的な病棟、施薬院とか、療病院というものをつくっていますが、その背景になった維摩経というお経のなかに、「衆生病む故に我もまた病む」と、あなたが病むから私も病むと。つまり生命の平等観というものがあります。そしてその奥にあるものは何かというと、先ほど日野原先生のときに出てきましたタゴールのなかにありましたけども、じつはインド哲学というか、「梵我一如」という宇宙と私はもともと一体なんだと。だんだん成長して一体になるんじゃなくてもともと一体なんだという、その一体感というものを非常に東洋のベースに流れている思想ではないかと思います。

南 ありがとうございました。

 

 

 

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