私のもらった手紙のなかに、もうあと2、3時間で死ぬということがわかっているときに、採血をされて、それが今でもそのときの情景を思い出すと、私は苦しいと書いてらした方がありました。私もそういう経験をしました。そのときはあと3時間とわからなかったですけどね。でも、ひどい状態のときにたくさんの空の注射器をもって主人の部屋へ入ってらっしゃいましてね、「エッ、こんな状態なのにまだ血採るの?!」ていう感じだったんです。悪いことに大学病院でしたから、「ああ、これはきっともしかしたら学生たちの実験材料だわ」と私もそう思ったし、その方もそう書いてらっしゃいました。それだから、私は大阪で講演したときにその話を話しました。そしたらあとで質問のときに女医さんがお立ちになって、「それは当然のことです」とおっしゃるんです。人工呼吸器をつけていても、血中の酸素の濃度を測るために採血は欠かせませんとおっしゃったんです。私はそれをうかがったときに、「あ、たいへんいいことを伺いました。私はそれを知っていただけで、こんどは私の親戚でそういう目にあう人があって、家族が嘆いていたら、これは何も病院がいやがらせしているんでもいじめているんでもないのよ。これはこういうわけで医学的に必要なことだから我慢しましょうね」と言えると思うんですね。それでその家族はずい分救われると思うんです。
これから数時間あとに自分の最愛の人と死に別れなければならない悲しみのために今悲しんでいる、予備悲嘆というんですか、そういうのは。とにかくまだ本当の悲嘆がこないうちから悲しいわけですよね。そういう悲しみのなかにいる人がここにいるんだということは、もうお医者さまには目には入らない。何も無視していじめてやろうと思っているんじゃないですよ。それを感じるだけの余裕がない。もうそれは病院にとってはあたりまえなことなんですね。だから、そこに悲しんでいる人がいるという感受性がもうないんです。
私はそのときに本当に恐ろしいと思いましたが、病院というのはやはり人間の苦しみや悲しみというのがたくさん詰まっている職場ですわね。だから、それにいちいち感激していたんじゃそりゃ仕事にならないかもしれません。だから人の苦しみや悲しみに慣れるということはある程度必要だと思います。だから、馬という字に川という字を書く馴れるという字、習慣の慣という字までは私は許されるべきだと思います。だけどそこに今愛する人と別れなくてはならないという人生最大の悲しみと苦しみにもがいている人がいるというのに、それが目に入らないほどそういうことに、けものへんに甲というなれなれしいという狎れるという字がありますね。狎れっこになって「なんでそんなとこで悲しんでいるの?」ていうような、そういう感じにはなってほしくないと私は思いました。
私はインフォームドコンセントというのが、「肝心なときにはインフォームドコンセントがない」と書いてきた方があって、そうだなと、私もそういうことがあったのでよくわかるんですけどね、私共では最後に亡くなってから、「医療解剖に献体していただけますか」と言われました。医療解剖というのは医学生たちがあちこち切り刻む、そういう解剖ではなくて、教授が、どうしてもわからなかったけど、それはどういうことだったんだろうということだけを開けて見る解剖だとおっしゃった。それで私はいいと思ったんです。主人は「心あたたかい医療」ということをやっていた人間だから、ことに母校のためだったからそれはいいと思ったんですけどね、うちには一人の息子がいます。一人息子です。息子と親父というのは、また女房と亭主の関係とはもっと違う濃密な関係があると思うんです。私は自分がいいと思っても、もし息子がつらいんだったらやめようと思ったんです。