ギリシャのヒポクラテスという人が「医はアートだ」と言っているそうですけど、ところが今、日本の病院の現状を見て、「そうよ、日本の病院の医療はアートよ」と思う人より、「そうかしらねえ。とてもアートとは思えないね」と思う人のほうがずっと数が多いのではないかと思います。それがやはりいちばん問題なところだろうと思います。私どもの主治医の方はたいへんまじめなプロテスタントの信者でした。それなもんでたいへんいい方で、すごいまじめな方で、正義そのものみたいな方でした。だけど、その方がおっしゃるのには、「自分は神様から医療という仕事をもらったと。だから、奇跡が起こるかもしれないから、最後の一秒まで気を抜かないで全力を尽くすことが私の使命です」とおっしゃいました。ほんとにそれは正しいですよ。何も非のうちどころのないお話と思います。だけど、その先生の患者がそれを望んでいるかどうかということはまた別な話ですね。
この間、JCOで臨界事件がありました。臨界ですごい火傷をなさって、大内さんという方がさんざん苦しい闘病生活をなすったあげく、去年の12月に亡くなられた。その亡くなる1ヶ月ぐらい前のときに、「癌は闘うな」ということを書いてらした近藤誠さんという方が、「大内氏の回復を望むや切だけども、もし大内氏がどうしても治らないんだったら、どうか安らかに死なせてほしい」ということをおっしゃってました。その反論として、片一方のほうに、土石流のときに治療した長崎の先生が、「これは医学の根幹にかかわる問題で、奇跡が起こるかもしれないから最後の一秒まで死力を尽くすのが医者の務めだ」と。私、どっちも正しいと思います。どっちに軍配をあげることもできません。だけど、そのなかで欠けていることがあるとすれば、それは患者自身がどう思っているか、患者の家族はどう思っているのかということですね。それで大内さんの場合には、なんか雑誌の話によるとですから、本当かどうかわかりませんけど、奥さんが、「もうこれ以上生かさないでいいです」とおっしゃって最後になったんだそうですね。でも、やはり私は、自分が人工呼吸器のスイッチを止めるという選択をして、その後2年、とっても苦しみましたから、それを家族に言わせるのはちょっと酷だなあという感じは、そのときしました。でも、家族がどう思っていたかということは、このお二方のお医者様の談話にはまったく含まれていないんですね。
米村慧(さとる)さんという、末期の医療に従事していらっしゃる方が、「医療には往きの医療と還り(かえり)の医療があるんじゃないか」という話をしていらっしゃる。往きの医療というのは往復の汽車賃のなかの往という字です。還りの医療というのは還元とか、還俗とかっていうときに「還」ていう字を書きますね、その還るという字です。で、往きの医療というのは、どんな苦しい闘病生活をしても最後に「先生、おかげさまで今日退院できます」という、要するに治れる医療。ですけど、還りの医療というのは、癌の告知をやったあとやなんか、あともうこの人に残されている時間は限られている、そういうときです。でも、日本ではそのときまで往きの医療がなされている。そこには還りの医療というのがあってしかるべき、還りの医療というのは大きな命のなかへ帰っていく準備のための医療。そういう医療があってもいいのではないかということを提案してらっしゃるんですね。