それで日常のなんでもない時の、若いときからの何でもないときからの夫婦の積み重ねというのが、片一方が死の床へ就かなくてはならなくなったときに、どんなに力をもっているものかというのを、本当に自分で体験しました。それで私が「もうよろしゅうございますか」とお医者さまがおっしゃって、人工呼吸器のスイッチが切れたときに、あのときによく「管を抜いてください」ということが言えたと思うんです。お手紙によると、そのままで何のお別れもなくて死んじゃって、それがいちばん残念だというお手紙、たくさんありました。ですけど、主人のほうにもたぶん3年半も看病さして、いくらおれが言葉がしゃべれないといっても、このまんま何も言わないで逝くわけにはいかないよというのがあったんだと思います、意識としてね。そういう主人の無意識下の意識というんでしょうか、そういうものが私にテレパシーとして通じて、それで「管を抜いてください」という言葉になったと思うんですね。
もし管を抜かないでそのままひしゃげた顔のまんまでもし逝ったら、あのメッセージは伝わらなかったかもしれないなと思うんです。ですから、そのときにそう言えた、また主人のほうでもそう思ってくれたらしいということが、やはりそれまでの41年間の成果だったかなというふうに思うんですね。今、人口は62億あるそうです。こういうところで出会って、なにかお顔を拝見するということだけでも大変な奇跡的な確率だと思いますけど、まして夫婦になるということは大変な確率なわけですね。関西の地震でもないかぎり夫婦がいっしょに死んでしまうということはまずないわけで、どっちかが残るわけです。ですから、残って、いよいよ別れなきゃならないという死に別れのときに、やっぱり我々夫婦はとにかく「生き甲斐のある一生を送った。私はあなたの伴侶でとてもしあわせだった。いい夫婦生活だった」ということをお互いに確認して死に別れることが、できるような夫婦でいたいと思うんですね。
いよいよ片一方が死の床に就いちゃってから、もうお別れの時間まで少ないから、さあここで夫婦の積み重ねをしましょうたって、もうそのときには間に合わない。もうそのときには元気なほうの片一方が、死んでいく片一方のあるがままの状態を受け入れるほかは何もやることがないんです。ですから、そうでないときに、やはり死の準備をしておいていただきたいと。私はお手紙を読んで、「えっ、これはそういう心の準備が少し不足じゃないの。これは少し呑気すぎたんじゃない」と思うことが多かったんです。それが患者さんへの問題だということです。
一茶の句に、「死に支度いたせいたいせと桜かな」というのがあります。一茶が最後に詠んだ3つの句のうちの1つだそうです。桜は毎年咲くので、せめてまあ50をお過ぎになった方は、そのときに「memento mori」、「死」のことを思って死の準備をなさる、そういうふうな毎年の目処にしていただけたらと思います。
こんどはお医者さまとか看護婦さんとかにお話しすれば、おそらくお医者さまや看護婦さんは習慣的にやってらして何とも思ってない。べつにいじめてやろうとか、グサッとやってやろうとかって思っているんじゃないんです、もちろんね。だけど、こちらとしてはグサッとなるようなことがいっぱいあるわけです。そのことについてこうしてほしいという話なんです。決してお医者さまを非難しているのではないんです。主人は「心あかたたい医療」というのを6回にわたって書いたときにいろんな提案をしたんですけどね、結局最後に言いたかったことは、「頼むから死ぬときには心安らかに死なせてくれ」と、結局そこへぜんぶ集約されていたと思います。