それで私は、『夫の宿題』に医療のことを書いて、それで終わりにするつもりでいたんですけど、これはとても終わりにはできないなと感じました。その投書を分けてみると、3つぐらいに分けられるんですね。そのなかには、患者さんのほうもちょっと準備不足じゃないっていうのもあるんです。さっきも死の準備のお話が出ましたけどね。それで今、寿命が延びて、昔は70歳ぐらいでも古来希だったわけですよね。だけど、今はもう90歳過ぎないと「ご長命です」と言っていただけなくなりました。それはたいへんいいことですけどね。そのために、50歳ぐらいの方は「まだまだ30年もあって、死なんてずっと先の話だよ」と思っていらっしゃる。60歳の人でも、「まあ20年はまだある」と思って、70歳の人でも「まだまだ15年ぐらいあるよ」と思ってらっしゃるんですね。だけど、80歳まで寿命が延びたといっても、当然の話ながら、ぜんぶの人が80歳まで生きられるわけではもちろんないわけです。ですから、やはり何の準備もしてないところへいきなり死がやってきて、周章狼狽して、もう丸投げで、「どうぞよろしくお願いします」という話で、お医者さまに何でも丸投げでまかしてしまって、あとで文句言っても、それはしょうがないんですね。お医者さまだって「そりゃないです」ていう話になるだろうと思います。
ですから、若いときから自分のうちでは告知の問題も含めて、それからいよいよもうだめだとわかったときには、病院が反対しようと何しようとうちへ帰ってきてうちで死ぬのか、そういうこともぜんぶ含めて、まだまだ死の足音が聞こえてこないうち。もういよいよ切羽詰まってそこまで死がきちゃって、もうどうにもこうにも逃げようがないというところになってから、なんかいい知恵を考えようたって、そういう切羽詰まって、敵が目の前にきたようなときにいい知恵が浮かぶはずがないんですね。ですから、やはり告知の問題なんかも含めて、まだまだそういうことが笑い話で言えるうちに、家族で準備をしておくべきだと、ほんとにそう思います。
私が「ほんとにこうなんだ」とびっくりしたのは、素人の家族というのは、末期医療の現場というものを自分の家族がそういう立場に陥るまで見ることがないんですね。よそさまが末期医療をやっていらっしゃるときに「すいませんが、ちょっと見学さしてください」ていうわけにはいかないんです。だから、ほんとに何も知らないんですね。主人は10回入院して8回手術をしているにもかかわらず、私は人工呼吸器、はじめて見ましたからね。なんだか病院へ行けば何となく助かるのではないかといういわれのない過信があるんです。だけど病院は死の避難所じゃなくて、人間は死ぬときはどこにいても死ぬんです。ですから、そういうことを考えて、しかも60過ぎて、レントゲンだの頸椎検査などで何かが出てきたり、見つかったりしてからでは、たいていの場合手遅れなことが多いのだということも頭のなかに絶対に入れておくべきことだと思います。
それでそのときにはそういう末期医療になった場合には、今の現代医学というのはしばしば無力になるということも考えておいていいことだと思うんですね。死ぬときはどこにいても死ぬのだということを、やはり考えておくべきだと思うんです。
それからあとは生活態度の話です。甲府のほうで内藤いずみさんという女医さんがいます。朝は診療をなさって、午後からは24時間体制で在宅で死にたい癌の患者さんを、もうそれこそ夜中の2時に起こされようと3時に起こされようと、即座に行動をするという、すごいバイタリティに富んだお医者さまですけども。その先生が、なにかはじめての患者がいらして、ご夫婦でいらした場合には、もうその方と一目お会いしただけで、このご夫婦がどういうご夫婦でらしたということはだいたいわかりますって。それからたとえば3ヶ月とか4ヶ月とか1年とか、そのどちらかが亡くなるまでお付き合いして、はじめに「あ、このご夫婦はこういうふうだったんじゃないかな」と思った印象はいうのはほとんど変わったことがありませんとおっしゃいました。お医者さまのなかには、「人間は生きてきたように死ぬんだ」とおっしゃる方もあるんです。さっきも葉っぱがどういうふうに染まっていくかと、自分がどういうふうに葉っぱを染めていくかというのはその人ひとだと、日野原先生もおっしゃいましたけども、ですから、元気なうちの何でもない間の日常生活というのはとってもだいじで、そこらへんのところは疎かになっている人ほど、やっぱりそういうときに周章狼狽してしまうんだと思うんです。