私は主人と41年間いて、それこそしょっちゅう病気の問屋みたいに病気をしている人でしたからね、主人が死ぬということがもう最大の恐怖でした。最大の私の弱点で、もう主人が死んだら私もいっしょに悲しみのあまり死ぬんじゃないかと思ってました。主人もそれをとってもよく知っていたと思うんですね。とにかくそのときに思いがけないメッセージ、私はそういうメッセージをまさかもらうとは夢にも思ってませんでした。そのメッセージをもらったときに、「ああ、このメッセージをキャッチするために1年間のつらい訓練があったんだな」と思いました。もし人工呼吸器をつけられるまで二人でペチャペチャとおしゃべりができていて、それでそういう人工呼吸器をつけられたとしたら、おそらく人工呼吸器をはずされたときに、手を握っていても何もキャッチもできなかったと思うんですね。「ああ、おだやかな顔で死んだわね」というだけだったと思うんです。だから、私はそのときに、「ああ、神様このために1年間のつらい訓練があったんですか。そこまで人間は予知することはできない。ほんとに神様、おみごとでしたね」と、ほんとにそう思って、私はそのメッセージをもらったときにベッドサイドで本当に癒されたんです。カトリックには「我、神をほめ」という賛美歌があるんですけど、そこで「我、死をほめ」という賛美歌を歌いたい心境でした。
ですから、投書してらした方の、10年も前にとか、8年も前にという、まだずーっと悲しみが続いていらっしゃるというのが、たいへん胸を打たれました。それで、病院との出会いが悪くて、自分の愛する人が病院でさんざん苦しいめにあったあげく結局死んじゃったという場合には、肝心の患者さんはもう天国なり極楽なりに行ってらっしゃるにもかかわらず、遺族はまだまだ闘病が続いているんですね。どういう闘病が続いているかというと、「私があのときにあんな病院へ連れていかなければ、今まで生きてなくてももうちょっと生きていたんではないか」、それから「あんなメチャクチャな手術に私が承認の判を押さなければ、あんな苦しい死に方をすることはなかったんじゃないか」という、後悔と自責の念がずっと続いているんです。それが私にもとってもよくわかりました。その 120通のお手紙に書いてらした病院のひどさというのは、ほとんど私が経験したことばっかりでした。インフォームドコンセントといっても、肝心のことは言ってくれないとか、セコンドオピニオンを聞きたくてもそういうとても雰囲気ではなかったとか、明らかに薬害だとわかっているのに、いくら言っても薬を変えてくれないとか、判断ミス、医療ミスだとわかっているのに責任を取らなくて曖昧にしちゃったとかね。それから、いちばんつらいと書いてらしたのは、朝行ってみたら、自分の愛する人が手足を縛られていた。本当にかわいそうだったと。そういうのがあります。それから、もう治らないんだったらうちへ帰りたいと思っても、「そんな勝手なことを言うんだったらこれからどうなっても知りませんよ」といって恫喝するとかね。ほんとに私、ぜんぶ、その手足を縛られていたということだけは、私はそういうことは絶対させまいと思って、主人が入院している間はいつでも病院に泊り込んでましたから、それはしないで済みましたけど、そのほかの訴えはぜんぶ私が経験したことでした。