松島 ありがとうございました。4人の方々はまさに生と死の現場におられる方々、またそのご体験をお持ちの方ですので、実際の具体的な話がいただけるものと思います。
最初にお断りしておきたいのですが、本来ですと皆様と意見を交換したいと思うのですが、時間の難しさもありますので、パネリストの方々のお互いの意見交換を中心にさせていただきます。ただ事前に皆様方からいくつかご質問やご意見をいただいておりますので、それを時々に織りまぜながら進めたいと思っております。
それでは最初に、人間にとって死ぬってどういうことなのだろうかということを考えてみたいと思うのです。加藤先生は、皆さんにお配りしたプログラムのなかにも、死を見つめる仕事を進めていくなかで、いろいろ気づかれたことを短い言葉ですがまとめておられます。はじめに加藤先生から、「死」ということを見つめてどんなことをお考えなのか、少しお願いできますでしょうか。
加藤 先ほど、日野原先生、それからデーケン先生から、死をどのように私たちが受け入れ、そして死を見つめながら生きていくかということを教わりました。しかし、私が実際に死と向き合う臨床の現場にいますと、そうたびたび癌の患者さんたちが実際に死をしっかりと見つめて生きていらっしゃるわけでもなくて、むしろ死というものがずっと向こうにあったり、あるいはすぐ近くにあったりしながら、ただ淡々としたこれまでのどおりの毎日の日々が送れるということが最高のしあわせであるというふうにずっと考えてきました。
ホスピスを開設する前は、見てきた方々が生きて、そして老い、そして病んで、死んでいくという、その過程を見てくるという継続性があったわけですが、ホスピスを開設してからいきなり私の目の前に死が間近になって、そして明日死ぬかもしれないという方々をたくさん見るようになりました。
最初のころは、私はとても身構えて、そのような人たちにどのようなお手伝いをすればいいのか、とても気になっていました。しかし、そこで学んだこと、見たことというのは、そういうことではなくて、ご家族のこれまでの生活のなかやこれまでの職業のなかから、価値観をさぐり、その価値観に寄り添いながらどのように日常的な生活をお手伝いすることができるのだろうかということを考えればいいのだろうというふうに考えるようになりました。
しかし、そういう点で、なかにはご自分のこれまでの生活とはまったく違った生き方をするようになっていく人たちも数少なくいらっしゃる。そのすべての人たちが亡くなっていく過程のなかにおいて、その死の向こう側にある何か、そして死を前にしてその人たちが言葉にはしないけれども、何かを感じ、私たちに何かを発信してくることを強く感じざるをえません。
私は、今のところはっきりとこれが自分の宗教だというものはもっておりません。しかし、日常的な生活をしていきながら、なおかつこの世を去っていく方々の瞬間、私たちの生を越えた、私たちの知的な理解を越えた輝きを見ざるをえません。私の今の課題は、知と心を死のなかにどのように統合するかということにあります。しかし、それは知的な作業ではなかなかできるものではないかもしれません。
本日は、大江健三郎の『回復する家族』という本を持ってまいりました。知性の代表である大江健三郎さんがどのように自分たちのことを語っているのかということを一部ですけれども、ご紹介したいと思います。