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私は、二つの歌をみなさんにご紹介したいと思います。

「おいとまを、いただきますと戸を閉めて、出で行くようにいかぬなり生は」。「生」はなかなかそうはいけないというわけです。これは斉藤史(ふみ)という歌人が、昭和51年に詠んだ素晴らしい歌です。われわれはそういうような目標をもっているのだけれども、人間はなかなかそうはいきませんよということです。

もう一つ、若い方にみなさんが伝えてほしい。これは山田冨士郎という歌人がうたわれた歌であります。山田冨士郎氏は、夫人が癌との闘いの末、30歳の若さでふたりの男の子を残して亡くなって、そして男やもめになったわけであります。その彼が詠んだ歌というものも、私たちの心にしみじみと響くものがあります。

「魂の住み処と信じいるごとく、7歳の子は母の墓掃く」。お墓参りをして、7歳の自分の子どもがお墓参りをするときに、その子どもはお母さんの魂の住み処がここにあるんだと信じているかのごとく、お墓の掃除をするというのです。

この幼い7歳の子どもにも、「死」が何であるかということと、「魂」というものがどんなものであるということを考えます。お墓参りに親が連れていくことによって、子どもに「死」の教育がされているということです。お盆にお墓参りに行くということは、これは必ずしも仏教だけの営みでなくて、キリスト教の人も事実やっているわけです。そしていつも故郷に帰ると、そのご先祖のお墓にお参りをするわけでございますが、私は「死」の教育というものは、ただ「死」というものはこういうものであるというように子どもに教えるのではなしに、子どもには植物を作らせる、花を育たせる、バラの花を作らせる、あるいは小鳥を、カナリヤを養わせる、あるいはペットの犬を愛し、友だちになるようなことを教えるなかから、かならずバラの花は枯れ、そしてそのペットは死んでしまうという体験をする。そしてそのときの喪失の悲しみは子どもでもしみじみ感じるものであり、草や動物で見られるこの自然の理は、人間にも同じようなことが起こるということを子どもに教えてくれる。そのような教育こそが子どもに対する「死」の教育でございます。

10年以上前に、臨教審で教育改革が提言されました。いまの政府も教育を変えなくてはならない、ボランティアの仕事を半ば強制的にやろうとしていますが、それに対して野党がいろいろ反対しておりますが、あの10年余り前の臨教審で、私の尊敬する京都大学の元総長の岡本先生が議長となってやられたときに、子どものときから「死」の教育をすべきだと主張されたのは、日本財団の会長の曽野先生でございます。残念ながら、それが答申には出なかったのですが、別の審議会で曽野会長が隣に座っていた私に、「私はがんばったのですけども、とうとうそれが文章化されるには至りませんでした」と言われたので、私も子どもに「死」の教育をすべきだということをかねがね言っていましたので、「まったく残念ですね。今度の答申のときにはぜひそれを入れてほしいですね」とお答えしたのであります。そのような動きがいまの政府にあるかどうか私は知りませんが、「死」の教育というものは、やはり子どものときから何気ない身近な出来事の一つとして行われていなければならないのです。大人の世界にあって、お父さんの世話になった人が亡くなったときに、その子どもをお通夜に連れていって、そしてお父さんが世話になったその人の死んでいる顔を見て、人間の最後はこのようなものであるということを、その場で体験するということ自体が教育であって、子どもは病院には連れて行くな、病気がうつるからとか、子どもは臨終の場などには連れて行くなとかというようなことは、これは「死」への準備教育からまったく反することであると思います。

 

 

 

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