先生は、1967年、今から32年前に世界で最初の近代的なホスピスをつくり、それから14、5年してから日本にホスピスができて、現在、日本には59のホスピスおよび緩和ケア病棟ができているわけであります。しかし、まだベッドの数は1000床しかないわけで、二十何万人も癌で死ぬのに1000床しかないわけですから、もっともっとホスピスがなくてはならないし、ホスピスができなくても、病院自体がその病室で死んでもいいような環境を与えられるように、日本の病院がうんとよくならなければ、日本人は不幸なままであるということを、私はいつも強く言っております。
平塚の郊外にあるピースハウスという22床の独立型ホスピス、これは日本財団のご寄付と、7000名のボランティアの募金によってできた研究所を持つホスピスで1994年に完成しました。私が理事長を務めております。このホスピスをつくっている間に、私は新潟の長岡からのある70歳近い女性から手紙をいただきました。「私は骨髄腫であって、もう命が限られています。先生、早くホスピスをつくってください」と言われたけれども、なかなかできなかった。そこで私は、日本で最初の仏教ホスピスが長岡にできるから、そこに入院なさいといって紹介をして、そこに入るようになりました。入って間もなく、病気がどんどん悪くなる。彼女はワープロで自分史をずっと書いていましたが、私はいよいよ悪いと聞いて、日帰りで長岡まで往診をしました。そうしましたら、彼女は私に、「先生が書かれた本に、こういう文章があります。『人生の 999が幸福であって、いろんな意味でよかった生涯を過ごした人でも、最後の1が不幸であれば、その人の人生は悲しいものである。だから最後の1というものを大切にしなくてはならない』と。そして私は今、その1をこのホスピスで経験しているのです。先生、私を力づけてください。私はこの1を大切にしたいから」と言われた。彼女はお葬式のことからなにもかもを書き残されて、そこで亡くなられました。
私はいろんな病院に関係しておりました。聖路加国際病院でも大勢の方が亡くなりました。しかし、病院における最後ほどみじめなことはありません。ベッドにがんじがらめにされて、人工呼吸器をつけられ、点滴をしながら、そしてまた尿道カテーテルを入れられながら、ぜんぜん動くことができないような状態のまま最後は苦しんで亡くなるのが普通であります。それを見ますと、その人の生涯のなかで、あれはいちばん不幸な状態だと思われるでしょう。今の日本の病院には、病室にトイレもないし、バスルームやシャワーもないのが普通です。日本の家がそうであったように、病院も一世紀ほど日本は遅れている。このような立派なホールができるのに、あのようなオリンピックのスタディアムができるのに、なぜ日本の病院はアメリカに比べて半世紀以上も遅れているんでしょうか。