献体なさる方というのは、私のような医学生にやたら感情的になられることよりも、ただ冷静な頭でよく勉強し、よい医師になることを望まれて、医学の発展に役立つようにという普遍的な行為として献体をされているのかもしれないと思ったりするからだ。
さて、しかし全てが消極的申し訳なさからやっていた訳ではない。解剖自体は興味深く面白かったため、単に楽しいと感じてやっている側面はあった。本当に人体は統一がとれてよく出来ていて、その不思議さに思いを馳せると頭がクラクラする。あまり学究的でない私だが、細かい神経や血管を同定すると(特にスケッチ部位)本当にあるんだあるんだと心が踊ったし、破格をみつけると、その特別さがうれしかった。
最も楽しかったことの一つにスケッチがある。課せられたもの、という点では圧追感を覚えて苦しかったし、与えられた評価にがっかりすることもあったが、差し引きしても大きくプラスとでる楽しさだった。同じスケッチ範囲の仲間と徹夜したり、語ったり、励まし合いながら頑張った。スケッチ自体をするときは、班のメンバーがいないときに、一対一で御遺体に向きあって、独占してじっくりみるのが落ち着いた。回数を重ねるにつれ新たな発見があって、自分が前回までにいかによく対象をみていなかったかということを痛切に感じさせられた。当初評価を得るためにしていたスケッチは、次第に「私がスケッチしなくてどうする。この方の神経を今スケッチして留めておかねば。」という消滅を免れない不可逆で無常なものに対する──とるに足らないのはわかっているけれど──抵抗といった風合いを帯びるようになってきた。