なお、停船命令を行う際、停船命令を発する船舶が領海又は接続水域にあることは必ずしも必要ではないが、「追跡は、視覚的又は聴覚的停船信号を外国船舶が視認し又は聞くことができる距離から発した後にのみ、開始することができる」(同条4項)という要件がかかる(46)。国際海洋法裁判所は、後述するサイガ号事件(第2判決)(1999年)で、「第111条による継続追跡権行使のための条件は累積的である(47)」ことを確認した。なお、追跡開始の要件は、わが国が昭和43年(1968年)に加入した1958年の公海条約第23条3項にも規定されており、この要件の問題が、わが国の国内判例で取り上げられたことがある。
それは、長崎地裁で昭和45年4月30日に判決された「レイノルズ夫妻事件」である。本件は、世界平和運動家として著名なレイノルズ夫妻(夫アール・レイノルズ博士は米国籍だが、夫人の明枝さんは日本国籍)が平和運動のために当時わが国が承認していなかった中華人民共和国に赴こうとして旅券の発給を求めたが拒否されたため、正規の手続を行わないまま、ヨット「フェニクス号」で長崎港内を航行した後、領海外にでたところを追尾してきた巡視艇により、夫人は密出国の本犯で、博士はその幇助として、逮捕起訴された事件である(48)。本事件で、この巡視艇の追跡権行使の態様が問題となり、停船命令を発することなく、単にこのまま出国しないよう勧告を繰り返しただけで、領海を出たとたんにいきなり逮捕したのは違法の疑いがあるとし、その逮捕中になされた供述調書の証拠能力が問われた事例である。国際法上の追跡権の行使の合法性が国内裁判で争われためずらしい事例である。本事件で、「弁護人らは、被告人両名は公海上で且つ外国船舶であるヨット『フェニクス号』上で逮捕されているが、原則としてわが国の主権の及ばない公海上にある外国船舶を拿捕し、その乗員を逮捕するには、公海に関する条約第23条に規定する追跡権の行使に該当する場合でなければならないところ、本件『フェニクス号』上における逮捕については、右追跡権の行使の要件のうち、『追跡は、視覚的又は聴覚的停船信号を外国船舶が視認し又は聞くことができる距離から発した後にのみ、開始することができる』という要件を欠いており、よって…同条約に違反した違法な逮捕であって、国際法規の遵守を規定した憲法98条2項および法の適正手続を保障した憲法31条に違反するので、本件公訴は刑事訴訟法338条4号により判決をもって公訴棄却されるべきである」と主張した。