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図4 贄につけられた荷札木簡(愛知県史 資料篇6 古代1より)

 

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図5 鎌倉時代に作製された瓶(「常滑焼と中世社会」:小学館)

 

別に「皇室ご用達」だから云々というつもりはないけれども、良質の産物あるいは象徴的な産物でなければ、儀式的意味だって持ち得ないわけだろう。

濃尾平野や三河・伊勢のそれぞれもまた、多様な生業を発展させつつ、河川によって伊勢湾とつながっていた。木曽三川とその水系については言うまでもないが、庄内川や矢田川なども律令国家成立以前から、重要な交通の手段となっていたことが推測されている。現在の岐阜市内に当たる長良川のほとりには、奈良時代にはすでに小川市があって、熱田周辺の住民が交易のためにハマグリを船に積んで出掛けていたことが史料に見えるが、同じころ庄内川と五条川の合流点には草津市があったとされる。矢作川には矢矧市があったと思われる。そこへ「沓を買いに行こう」と歌う古代歌謡が残されている。境川・豊川・音羽川など三河湾に注ぐ河川、伊勢側の鈴鹿川・雲出川・宮川・櫛田川など、交易についての古代における具体的記述を見いだすことは出来ないが、海産物が内陸に運ばれ、内陸のものが海浜に運ばれる広い意味での伊勢湾内交易と交流は必ず存在したに違いない。平安時代の末期、平治の乱に敗れた源義朝は、美濃青墓(大垣市赤坂)から、柴舟にかくれて杭瀬川(当時の揖斐川本流)を下って知多半島の内海まで逃げてくる。青墓は、小栗判官の物語の舞台の一つとなったところであるが、陸路の宿であるとともに、そこから川を下って直接伊勢湾に出るという日常的な水上交通路があったことが分かるのである。陸上交通がさかんとなってからも、水路が相互補完的にあったことを推測させる興味深い逸話であろう。

 

中世の交易

中世においては、熊野水軍が有名であるが、この中には、志摩の九鬼氏の軍勢も含まれていた。熊野は外海に面するが、熊野商人とともに伊勢商人がいて、伊勢船が、布・米・唐物陶器(輸入品)などを扱った関東との交易で富を蓄積していることが、史料によって確かめられている。

 

 

 

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