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鉄道と幹線道路とを基準にして、そのターミナルからの遠近を考えれば、名古屋は中心であり、伊勢は遠く尾鷲はさらに遠く、知多半島の先端や渥美半島は辺境であるが、この地図の意味するところでは、その関係は逆転する。

我が国の政治権力は、古代においても海に対する支配を強めながらも、支配の基準そのものは土地に置き、交通の柱を道路に置いた。そんなことで、歴史の史料を捜しても、なかなか海の交通のことは出て来ないのだが、視点をかえて検討してみる必要があることが近年強調されている。ちなみに、古代の東海道や山陽道などは、奈良時代には幅12メートル、平安時代には6メートルの、真っすぐで角張って折れ曲がる大道路である。平城京内の朱雀大路は72メートル、一条・二条などの大路は36メートル幅であって、これらはみな「政治的道路」である。

 

東西文化の接点

かつての日本史研究では、古代においては大和が政治権力の中心地であるとともに、文化的にも先進地域であって、地方にはその政治体制や文化がしだいに行き渡って行くものであるという考え方が、時には意識的にまた時には無意識的に支配していた。そのような見方からすれば、大陸文化の窓口ともなった九州地方はともかくとして、東国が遅れた地域であるとすることは、暗黙の前提であったように思われる。今日の研究水準においては、それは全く間違った考え方であり、それぞれの地域が固有の文化を花開かせていたことが、事実をもって論証されつつある。

しかし、その一方で、歴史学・民俗学・文化人類学・言語学などの成果によって、大まかに言って東日本と西日本が、異なる文化と社会構造をもち、時代によっては政治支配の構造もまた異なる、二つの世界に分かれていだいに明らかにされつつある。生業のありかた、家族構造、食生活を初めとする生活習慣、言語などが、東と西とでは異なっているのである。それぞれの要素によってその境界は微妙に出入りするが、全体を大きく括れば、その境界線はほぼ東海地方から北陸地方にかけてある幅をもって引いた線ということになる。この二つの文化の相違の深層には、アジア的規模で展開しているとされる照葉樹林帯文化とナラ林文化の分布の先端の日本列島における出会いという問題が横たわっているという指摘もなされている。

とすれば、伊勢湾は、西の文化の最東端に位置しているとともに、西と東の文化を結ぶ交流の拠点としての意味を負って来たともいえるのである。逆に先に述べたような、太平洋沿岸の灘の分布との関係における伊勢湾の地理的位置が、この地を西の文化の東端たらしめたとも言い得るかもしれない。この点は、なお、慎重で確実な研究を重ねて行かなければならないであろうが、日本列島の歴史的特質を解き明かそうとすれば、伊勢湾をめぐる諸問題が、避けて通ることの出来ない重要性を帯びていることは間違いない。文化の異質性を追求することと併せて、その異質の文化が交流して行く側面もまた、日本列島史の重要なテーマである。

 

湾内の文化と交流

このように述べてくると、伊勢湾はあたかも自らの内発性のないターミナルにとどまるように誤解される恐れもあろうが、決してそのようなことではない。水質の問題であるとか生産性の問題などについては自然科学者にお任せしたいが、三河湾・知多湾を含む広義の伊勢湾は全体として、きわめて多様で豊かな水産物に恵まれた海であったと聞いているし、歴史学的に見てもそれを傍証することができる地域なのである。

最初に述べた志摩国は、天皇家の食膳に供える海産物を確保するために別置された特別の国なので「みけつくに」とよばれたし、三河湾の海民たちは海部とよばれる集団に組織され、毎月交替で、天皇の食べ物である贄を貢進していたのである。図4は、その贄につけられた荷札木簡であるが、「佐米(鮫)」「須々岐(鱸)」などの名前が見える。

 

 

 

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