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戦国時代には、「熊野新造」と呼ばれる33〜36人乗りの「関東渡海廻船」があったが、これらのいずれもが根拠地としたのが、伊勢の大湊であった。

文献にはいっこう姿を現さないのだが、近年の考古学の発達によって明らかにされて来たものとして、知多半島や渥美半島で平安時代の末期に始まり、一部では室町末期まで生産が続けられた窯業がある。図5は、鎌倉時代の知多の製品である。とくに注目すべきものとして、この地で生産された、時には抱え切れないほどの直径をもつこのような大型の艶が、太平洋沿岸地域の全国各地で発掘されているのである。日本海側の十三湊(津軽半島の十三湖)でも、伊豆諸島でも発掘されたと聞いているが、平泉の柳之御所・鎌倉・福原(兵庫)・草戸千軒(広島)など、中世の都市であったと考えられるところを中心に青森県から鹿児島県までその分布は実に広範囲にわたっている。なお、柳之御所では渥美半島の製品が多いとのことであるが、知多の製品も多量に出土する。

生産地である知多半島や渥美半島などには、膨大な数の古窯跡があって、中世のこの地が一大焼物工業地帯であったことが確認されるとともに、それらが商品化されて全国に販売されたと考えるほかはない状況が見て取れる。しかしながら、それらは今日までに確認された限りでは、文献史料には全く現れない。したがって、考古学的な事実に基づいて論理的な考察を進めて行かなければならない。

まず、生産地において使用=消費されることは到底考えられない数の窯があり、各地からその製品が出土するのであるから、外部に向かって運搬されたことは間違いない。また、この地の中世荘園領主関係と年貢などの在り方から見て、年貢として領主が貢納させたことは考えられない。とすれば、だれが担い手なのかは不明であるが、これは商品である。商品であれば、採算性を無視した運搬は行われ得ない。能率を考えれば、自ずから落ち着く結論は船運の利用である。実は、知多の窯業に先立って名古屋東部の丘陵地帯に、膨大な窯業地帯が成立していた。知多の窯業は、猿投山西南麓古窯址群、略して猿投古窯址群とよばれているこの地域の窯業を引き継いで成立したと言われている。いささか粗い粘土だが、大きな艶を作るのに適した原料の問題があってこの地へ進出したらしいのだが、私は交易・運搬の便宜が問題となった側面を見落とすべきではないと考える。熱田の東南方向に展開する古代の年魚市潟一帯は、安定した船着き場の確保には不適切な自然条件をもっていたと考えるべきであろう。ここでは、名古屋中心主義は成立しないのである。東西を結ぶ機能に加え、ここにおいて、伊勢湾は産業生産物の出荷基地としての新たな役割を担うようになる。

 

近世・近代の伊勢湾

伊勢商人の活躍は、近世にまで引き継がれて行くが、近世中頃から、瀬戸内で生まれた弁財船(木綿帆を張った帆走専用のいわゆる千石船)が伊勢湾内の廻船主の間にも導入される。一方で、湾内では100〜300石積の波不知船が活躍するようになる。近年明らかにされた内海船をはじめとする知多半島の廻船の活躍とその経済的意味については、ぜひ私どもの大学の知多半島総合研究所関係の成果をご覧いただくことにして、二つの間題についてだけ触れておきたいと思う。

一つは、近世に頻発した漂流である。これは何も伊勢湾関係に限ったことではないが、近世の廻船の漂流には、当時の航海技術と政治との矛盾がもたらす独特の意味があり、伊勢湾出身の多くの海難・漂流者の犠牲と併せて、生存者の人生にも劇的なものがある。たとえば、南若松村(鈴鹿市)の大黒屋光太夫は天明2年12月(1783年1月)にその乗船神昌丸が難船、8ヵ月後にアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着、後にロシアの女帝エカテリーナ2世に謁見した。彼は、9年後の1792年、ロシアの遣日修好使節ラクスマンの船で、根室に帰着し、将軍家斉や松平定信らにその見聞を伝えたが、その内容は『北桂聞略』としてまとめられている。

 

 

 

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