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舟にエンジンなどがついていない時代のことだから、済州島と志摩国とでは、あまりにも遠いと感じられるかもしれないが、古代人は意外に遠くまで行くということも考えておかなければならないであろう。陸上交通であれば、大河川や険しい山地は絶対的障害であるが、海は無条件ではないにしても荒れさえしなければ、ある意味ではどこまででも行ける。海流に乗ってしまえば、意外に速く行けることもあるだろう。縄文時代でも、特定の土地で産出する石材で作られた石器が、海で隔てられた遠隔地から出土する例が、多くあることが知られているし、技術的に言えば、律令時代に耽羅と行き来すること自体は、決して驚くべきことではない。

私たちの時代の行動基準は生産性や能率であり、「帰らなければならない時間が決まった旅」ばかりだから、長い時間をかけた移動を不合理・不経済と考え、そのことともかかわって長距離の航海を困難と考えがちであるが、その基準を取り払ってみれば、案外耽羅と志摩の行き来は日常的なものであったのかもしれないのである。それに、耽羅も志摩も海女の本場である。交流があったとしても不思議ではないし、魚ならばともかく腹ならば活かして運ぶ技術をもっていたかもしれないし、途中での加工という事態も考えられないことではない。いずれにせよ、ある程度の保存が効くものになっていなければ、調として貢進することにはならない。念のため言えば、実際に鰒を採取するのが海女であったとしても、調を負担する責任者は、成年男性であるから、木簡に名を残すのは男性である。

 

瀬戸内海と琵琶湖

ところで、済州島までの往復が可能であるとすれば、当然のことながら、瀬戸内とのそれも可能であろう。その一部としての大阪湾との行き来があるということは、海上の交流にとどまらない意味をもってくる。意外におもわれるかもしれないが、それは、舟を媒介にした日本列島を横断する交通・交流の体系の一環に伊勢湾が組み込まれている。言い方を変えれば、伊勢湾発のルートは、舟で日本列島の海岸沿いをたどるだけではなくそれを横断しているということなのである。

私たちは、どうしても道路と鉄道を中心として、交通の便・不便を考える習慣が抜け切らない。それを離れてとか、別の視点でなどと言われると、今度は空を考えてしまう。現状ではそれはやむを得ない面がある。しかし、歴史をさかのぼれば、徒歩や馬の利用とならんで、距離が遠い場合にはそれ以上に、交通手段の基本が舟におかれていたことは明らかである。

 

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図2 琵琶湖から大阪湾に至る河川水系の分布

 

そのような視点に立ってみると、図2に示すように、大阪湾と琵琶湖が河川水系によって直結しているということが重要な意味をもってくる。時代を古代に限定すれば、淀川の河口付近の地形は現在とはかなり違うけれども、この関係の基本には、変化はない。

 

 

 

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