琵琶湖の北は、少し河川の状況が違うが、20キロ程で敦賀湾に出る。大山崎で分かれて木津川をさかのぼれば、平城京に近付くのも造作もない。一方、木津川には伊賀国の杣山からの材木が流されてくる。平安時代の始めに起こった藤原純友の乱にさいして、海賊を組織して瀬戸内海の制海権を押さえた純友の配下の者が芦屋(兵庫県)で襲撃を行なったとき、京都の公家達は今にも平安京が純友の攻撃を受けるのではないかとおびえたという。海賊を率いたこの集団は、大阪湾で上陸するのではなく、当然淀川から、桂川・鴨川を利用して京都に迫るであろうし、少なくとも大山崎付近までは一気に遡上してくるであろうから、このおびえは理由のあることであった。
古代の愛知県西部つまり尾張部には、尾張氏という有力な地方豪族が勢力を張っていたが、この尾張氏と関連をもつ氏族や尾張という地名は、大和・河内・播磨・丹後などにひろく分布している。このことは、陸上を歩いて行く人の流れからはつかみにくい。やはり瀬戸内と琵琶湖の水系を介して、人の交流が広く存在したことを念頭に置くことによって、理解しやすくなるであろう。
海上交通の拠点としての伊勢湾
伊勢湾が単に他の地域とつながっているということを言うだけでは、他の地域も相互につながっているのであるから、その位置を理解するうえでは不十分である。つながりの中で、どういう意味をもっているのかを確認しておくことが必要であろう。伊勢湾の東西には、熊野灘と遠州灘がある。東へはさらに、相模灘・鹿島灘と続く。西へは、遠く離れて日向灘である。さきに、海はどこまででも行けると述べたが、それは無条件の話ではないし、灘が相対的に難所であることは、言うまでもないことであろう。ついでに触れておくと、この点から見るかぎり、日本海側には響灘と玄界灘しかない。「海は荒海、むこうは佐渡よ」という歌のイメージから来るものとはよほど違って、日本海沿岸の交通は意外に頻繁である。もちろん、冬の荒天の日本海に漕ぎ出すのは無謀そのものであるが、日本の自然には、昔から明確な四季があったから、航海に適する時期というものはおのずから定まった。それはともあれ、西日本から海上を通ってくるルートにおいて、難所である熊野灘・遠州灘・相模灘・鹿島灘と続く灘の間にそれぞれ存在する停泊拠点の、最初に位置するのが、三河湾・知多湾を含む伊勢湾である。熊野から志摩にかけてのリアス式海岸の作り出す天然の良港がもつ意味は、極めて大きいが、伊勢湾そのものは単なる風待ち・日和待ちの停泊地ではなく、湾口を境にして海上状況の一変する太平洋沿岸最大の内湾であり、その内部に独自の文化を育む文化的拠点でもあった。私自身は、そこを通り抜けたことがないのだが、海上保安庁の方にお聞きしたところによると、伊良湖水道の内と外では、全く海上の状況が違っているということであった。かつて、広島の宇品港から松山まで水中翼船で渡ったとき、それまで滑るように航行していたものが、音戸瀬戸を越えた途端に大揺れになり船酔いした経験が、私にはある。素人にとっては、瀬戸内海でさえこのていたらくであるが、漁業や交易など海上を活躍の場とする海民においても、伊勢湾及びその外延につらなる志摩から熊野一帯の意味は大きかったことであろう。この地点がないと、太平洋沿岸の舟運は、かなり制約されるものになろう。伊勢の地は、言わばその湾口を扼する。そして、その対岸の伊良湖岬は、はるか南方の島からヤシの実の流れ寄る場所であった。若き日の柳田国男の体験は、島崎藤村の詩となり「国民歌謡」となった。
こうした感覚は、普通に北を上にして地図を眺めていても、なかなかつかみにくい。とくに、陸地を基準にして、下の外れに海を置くような伊勢湾地域の地図の描き方では、実感しにくいのである。図3のように、上下をさかさまにして、太平洋沿岸を行き来する舟の道を基準にして、イメージを膨らませてみよう。そして、名古屋が伊勢湾の一番奥の言わば行き止まりの位置にあることとともに、伊勢や知多半島のもつ位置を確かめてみよう。