最初の法典化への動きは、1930年、国際連盟主催の下に開かれたハーグ国際法法典化会議における「領海の法的地位に関する条約案」の作成に見られる。しかし、この時は、領海の幅で意見が一致せず、法典化の試みは失敗に終わっている。
第二次世界大戦後、大陸棚や漁業資源に対する関心が高まり、関係国の主張も強まってきたため、1958年(昭和33年)第一次国連海洋法会議(ジュネーブ)が開催され、国際委員会の作成した条約案を基に「1958年のジュネーブ海洋法条約」と呼ばれる次の四つの海洋に関する条約を採択した。
◎領海及び接続水域に関する条約
◎公海に関する条約
◎漁業及び公海の生物の保存に関する条約
◎大陸棚に関する条約
これらの条約は、慣習法を法典化しただけでなく、それをより一層明確化し、されに発展させたものであったが、しかしなお幾つかの問題点が残されていた。
特に、領海の幅について、3海里説、12海里説と主張が食い違い、結局、合意が成立しなかったのである。このため、1960年に第二次国連海洋法会議(ジュネーブ)が開かれたが、ここでも問題は解決しなかった。1970年代に入ると200海里水域の主張が広まり、また、大陸棚の範囲の決め方にも暖昧な点があったことで、海洋法再検討の動きが加速されたのである。
1973年に第三次国連海洋法会議が発足し、11会期を経て、1982年4月30日、海洋法の全分野に亘る単一の条約が採択され、117カ国を含む119代表が署名した。しかし、先進国が公海の海底資源開発が開発途上国に有利だと反発し、米国、英国、西独などが署名を拒んできた。
その後、先進国と開発途上国との間の協議が纏まり、1994年(平成6年)7月に本条約を実質的に修正する実施協定を定めた国連決議が採択され、先進国側の懸念が取り除かれた。また、1994年の11月で批准国が60カ国に達してから1年後となり、本条約の規定により自動的に発効することになった。このため、批准をすませる国が一挙に増え、わが国も含め122力国(平成9年11月)が本条約を批准するに至っている。
国連海洋法条約は、16年も前に採択されたものであり、決して新しいものではない。わが国においても、実質的には、以前からこの条約の趣旨に即した体制を少しづつ整備してきたのである。例えば、領海12海里及び200海里の漁業水域の設定も、条約採択の5年前の1977年(昭和52年)に行っている。しかしながら、それは主に国内体制の整備に止まっていた。それ故、今後は、国連海洋法条約に加盟した周辺諸国との調整が大きな課題となるであろう。