本稿では条約の内容について概観し、わが国の安全保障との係わりについて考えてみたい。
1. 海洋国際法の発展と国連海洋法条約制定の経緯
海洋に関する国際法は、まず慣習法として形成され、次第に法典化されてきたもので、最も古くからある国際法の一分野である。
海洋は古来から重要な交通の媒体として利用されてきたので、ローマ時代2世紀頃には既に地中海を中心に「自然法によって海及び海岸は全ての人に共有である」として、海洋自由の思想が生まれている。一方、11世紀から13世紀にかけてヴェネチア、ジェノアなどの地中海諸国そしてイギリスやノルウェーなどの北欧諸国が、自国の沿岸海域において、警察的管轄権や領有権を主張するようになり、それが15世紀の大航海時代に入ると一挙に大きな広がりを見せた。
即ち、当時世界の二大海軍国となっていたスペインとポルトガルに対抗して、イギリスとオランダの艦隊が連合してスペインの無敵艦隊を撃ち破るという象徴的な歴史が物語るように、大西洋、太平洋に至る世界の海の支配を巡る確執となった。これは取りも直さず、海洋の自由使用を巡る確執であったと言える。
当時、海洋使用について二つの対立した考え方があった。一つは、オランダの学者グロチウスが1609年に著した「海洋自由論」に代表されるもので、海の航行及び通商は全ての人に自由であるとする思想である。他の一つは、イギリスの法学者セルデンが「イギリス海」の領有を正当化するために1635年に著した「閉鎖海論」に代表されるもので、国家がこれまで慣行として領有してきた海では、海軍力を背景とした主権、領有権を行使できると主張した。
しかし、広い海の領有は能力的にみて、事実上無理があり、次第に海岸から一定の距離内に限定した、狭い海の領有に後退をしていった。その上、時代が商業資本主義と植民地貿易の発展期に当たっていたため、広い公海における通商の自由が、海洋国の利益に適うことが次第に分かってきた。従って、18世紀の中頃には、公海の自由思想はほぼ確立していたものとみられる。
他方、領海制度の方も別の要求から次第に発展、定着していった。即ち、17世紀末から18世紀にかけて、戦時に自国沿岸が他国の戦争行為の巻き添えを被らないようにするために「中立水域」を設定することが、欧州において一般的に行われるようになったことや、海上貿易の発達に伴って、関税の管理、密貿易の取り締まり、治安の維持、衛生上の取り締まり等の必要から、沿岸海域でその国の管轄権を行使せざるを得なくなってきたことから、欧州各国ではこうして沿岸国がその国の沿岸水域で主権を行使することが、18世紀には一般的となり、次第に領海制度として定着していった。但し、領海の幅員については、一致した考え方がなかったが、19世紀の中頃には3海里説(根拠は着弾距離と言われる。)が大勢になった。