30:国連海洋法条約は「義務の体系」とも呼ばれる
しかし国連海洋法条約は、海洋そのものを人類のものとしています。ただし、これはパルドー提案から後退していて、明確には「人類のもの」とされているのは、深海海底とその資源です。しかし、環境問題を審議した海洋法会議の第三委員会は、海洋環境そのものは人類のものだという発想に立って審議を続け、条約前文の「海洋は一つだ」という文言になってくるわけです。そういうふうに考えてくると、海洋法条約では、海そのものが人類のものだ、だから権利は人類にある、したがってその人類の海をどのように管理して行くかという義務が各国にあるという構造転換が起こってくるのがよく分かります。海洋法条約というのは基本的に権利の体系ではなくて、「義務の体系」になっているといわれているのはそういう意味です。
31:勘違いもはなはだしい日本の国際法学者
したがって、このことに関連しては、わけのわからない先生方がたくさんいるものですから、私はいやになるくらい論争しているんですが、それは国連海洋法条約の192条を見ていただければわかるのです。192条は、海洋環境の保護に関連して一番初めに出てくる条文です。それは「国家は海洋環境を保護する義務がある」ということから始まるわけです。では権利者はだれか、どこにも書いてないじゃないかという形式論議になって、その権利者は書いてないから、こういう場合は、192条は法的義務を定めたものではなくて、単なるモットー、つまり努力目標であるにすぎないという解釈にすべきだというのが、わが国の主要な国際海洋法の先生方のこの十年来の主張です。
32:国家がどういう義務を負っていくかとの発想で議論が進められた
そんなことを言っている世界の海洋学者は一人もいない。これは当然書くべきだったのです。権利者は「人類」で、国家が義務を持っているという構造になっている。それを書くべきだった。でもあのごたごたの中で、権利者の方を明確に条文の中に書くことができなかった。時期尚早だったといえる。けれども、構造としては、あの条文を審議した第三委員会の論議としては(私もそこに参加していましたけれど)人類の権利に対して国家はどういう義務を負っていくのかという発想の中で議論が進められていたことは明確です。
そう考えてみると、192条の構造がきれいになる。そうじゃないと、大変難しい解釈を取りつけなければいけない。そういう難しい解釈を取りつければ取りつけるほど、誰も海洋法条約は読めなくなる、学生もつまらないから関心を持たないということにならざるを得ない。現在国際法の教科書を見てもらえればわかりますように、どこを読んでも、海洋法問題については理解できる合理的な説明がなされておりません。
33:旗国主義から入港国主義へ
それでは最後の部分になりますが、このようにして国連海洋法条約を考えると、国連海洋法条約の基本構造の中心には、海洋は人類の共同財産だということが大原則として存在していることが分かります。