9:ネットワークと情報プラットフォームが不可欠
日本の環境問題の事例を紹介いたしましたが、これからわかることは、個別に行なわれている研究機関を、そのまま個別においていたのでは駄目だということです。ネットワーキングこそが将来の研究を切り開くてこになるということです。
ただ問題は、ネットワーキングを行なう際に、極めて優秀なマネージャーとフレキシブルに議論を行ないうる手法が求められることです。さらに、累積的な分散共同型のネットワークを共同して使う手法が求められます。あるいはそれらを利用するための情報技術を使ったプラットフォームが不可欠だと感じられます。
東大の海洋研究所は非常に大きな組織です。われわれのプロジェクトには参加頂きませんでしたが、こういう研究所をいかにネットワーキングするかが将来の成功の鍵となるでしょう。東京水産大学は漁業経済学などで非常に長い調査研究の歴史をもった研究機関です。13 東京水産大学は、われわれの事業にうまく載ってくださいました。
10:日本外交の優先的な課題だった漁業交渉
日本は戦後、平和条約とほとんど時期を同じくして北太平洋漁業条約を結びました。日本の平和条約の中には、日本が連合国と漁業条約の交渉を始めるべきこと、また韓国と漁業交渉を始めることという一文が特に入っていたのです。14
しかし、日本は韓国と非常に激しい李承晩ラインの紛争を起こして、1965年に日韓基本条約ができるまで紛争が続きました。そして、日本は、領海3海里という、日本の漁業体制にとって極めて有利な「広い公海と狭い領海」を与えられ、戦前からの資本蓄積を巧みに利用して、「沿岸から沖合へ、沖合から遠洋へ」という拡大を行なっていきました。その結果、日本の漁業は1960〜70年代にかけて世界一の生産高を上げ続けることができたのです。
日本の漁業者は、世界の海で漁場を開拓し、そこで生産を上げる体制をうち立てました。しかし、1970年代初頭から、日本は国際海洋会議の場で次第に掣肘されるようになり、1976年には、ついに日本は3海里から12海里へ、また、漁業水域200海里を制定せざるを得なくなり、日本の漁業も、遠洋から沖合いへ、そして栽培漁業、資源管理型漁業に転換していったわけです。
13 漁業経済学の一部門に漁業経営学があるが、漁業者の経営的な側面を調査する非常に重要な学問である。
14 戦前の1930年代から、日本の漁業者が、あるいは日本の大陸への侵攻に伴って、北洋サケ・マスの大規模な漁業活動を行なった。マルハとか日水とか日魯などが、日本の資本制漁業の蓄積を行なって、それが日本の資本主義的漁業活動の基礎になった。それがベーリング海の方に出て、すでに戦前にアメリカの漁業者との間で紛争を起こしている。したがって、講和条約を利用して、アメリカはなんとか日本の漁業に網を被せたかった。漁業に網を被せるというのは洒落だが、その結果できたのが北太平洋漁業条約だ。