第一に、この旅は政府の財政危機と政治危機のために途中中断したが、財政難でも旅を決行しなければならなかった、旅の正当化を図るものであったという点である。この点は本稿の研究目的からはずれるため詳しくはふれない。
第二に、マスメディア的要素として、欧米各国の紹介が急務であった、という点である。政府の視察・留学だけでなく、私費で欧米を訪れる日本人が増加することが確実な情況化で、政府には「政府流の欧米の見方」、つまり「欧米人の視線での欧米の見方」を伝える義務があったということである。同時に政府には、諸外国出身の「お雇い外国人」の日本国内での活躍のバックアップとして、諸外国の現在の情況を伝える必要もあったであろう。前者については、後の節で詳しく考察する。後者については、明治政府の政策「和魂洋才」、その後の「欧化政策」にひき継がれていくものであろう。
明治日本のメディア編成から国民国家「日本」の誕生を分析する李孝徳によれば、明治期はメディア(印刷・出版・教育・交通)の普及により「視覚革命」がもたらされ、「世界」の視覚的均質化がはかられていったのだという。その手段をになったのが、絵画の「遠近法」と文章の「言文一致体」であったという。*8『実記』の刊行時期はまさにこの革命のまっただなかに位置している。『実記』の図版は欧米流の遠近法をもちいたものであるにもかかわらず、文章は「言文一致体」にはいたってはいない。まさに体裁の面でも革命の途中であり、「世界」の均質化へむかう過程であったことがうかがえる。
3-3. 『実記』の意図せぬ結果
先の2節での考察から改めて浮かび上がってきたのは、『実記』が「ガイドブック」や「ドキュメンタリー」的な役割をになっていたのではないか、という問いである。発売元の博聞社の広告文(明治11年)には、「(前略)銅板にて各地の写真三百余種を彫りて挿入したれば、居ながら欧米各国を巡るが如し(後略)」*9とある。
元来、日本には、中国や限られた東洋諸国、日本国内の地において、感じるべき「歌枕」的な風景や「名所」というものが存在していた。教養あるひとびと、いわゆるエリートならば、当然見るべき景観やおぼえるべき感情を規定しているガイドが存在していたのであった。それは、「歌枕」からはじまり「旅行記」「名所図会」へと拡大していく。開国まで交流のほとんどなかった欧米に関して、この規定は存在しなかった。
江戸期には、名所案内の類が多く刊行された。それらの名所図を分析する渡辺勝彦*10によれば、具体的に名所の景観を図版でしめすものとしては『江戸名所記』(1662)がもっとも古いものであり、所収の景観は建築などの空間的要素を主とする名所が9割で、そのなかでも寺社が9割である、という。
*8 李孝徳『表象空間の近代』、新曜社、1996、P.253〜257.
*9 久米邦武編、前掲書、第1編「解説」、P.414.
*10 渡辺勝彦「江戸と名古屋の名所とその景観」『季刊自然と文化』新春号、観光資源保護財団、1990、P.12〜17