本論でテクストとしてとりあげる『特命全権大使・米欧回覧実記』*5は、福沢の著作より遅れて刊行されたものであるが、300余の図版が掲載されている。「百聞は一見にしかず」というように、読者である当時の日本人にとって、図版のあたえた意味は大きいと考えるのである。したがって、本論では『米欧回覧実記』の図版をテクストに、情報化の初期段階の日本において「欧米の景観が日本にいかに紹介されたか」を、問いたい。この問題を解明することで、近代日本人が欧米の景観を「風景」化していく過程を、垣間見ることができると考えるのである。
1. 『米欧回覧実記』とは
1-1. 『米欧回覧実記』の内容と編纂目的
『米欧回覧実記』(以後『実記』と表記する)は、1872年より約2年間にわたる、岩倉具視を特命全権大使とした、明治政府の使節団の見聞録である。資料1は、その行程地図である。この旅の本来の目的は、幕末時に諸外国と結ばれた不平等条約の改正交渉であった。しかしながら、この見聞録には、具体的な交渉の過程は描かれていない。それは、この交渉旅行の計画段階で、文部省付お雇い外国人フルベッキが、見聞録作成の意義を別の意図で、進言したためである。その進言とは、文部卿大隈重信にたいし、「使節のすべての役人・特に書記にみずからの見聞のすべてを詳細に記録し、各部門にできるだけ、多くの情報を筆写ないし印刷物のかたちで入手せしめること。そうすれば彼らの帰国後、政府は必要と思えば、その使節のすべての成果を国民の一般的な利益と啓発のために編集・刊行することができるであろう」*6 (『ブリーフ・スケッチ』明治2年5月2日付、傍線部筆者)というものであった。『実記』の第1巻に収められている編者久米邦武による「格言」にも、出版の目的として「文明諸国の一班を国人に観覧せすめし」*7とかかれている。
したがってこの『実記』は、久米を編者とした、使節団一行の集合的記憶である。そして、この編纂をするにあたり、久米自身もういちど旅の全行程をたどりなおしているため、久米の個人的記憶でもある。そして、政府の財政的バックアップのもとで、政治的意図のうえ編纂された。このような三重の意味を持つ見聞録として、『実記』は誕生した。
1-2. 『実記』の構成と流通
『実記』は、前述の情況下で、編纂され、1878年(明治11年)に発行販売された。編修は太政官少書記官久米邦武、刊行元は太政官記録掛、発売元は博聞社であった。構成は、全5編(5分冊)、全100巻で、うちわけはつぎのとおりである。
*5 久米邦武編、田中彰校注『特命全権大使 米欧回覧実記』(一)〜(五)、岩波文庫版、1978.
*6 久米邦武編、前掲書、第1編「解説」、P.398〜405.
*7 久米邦武編、前掲書、第1編「格言」、P.9.