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絵で見る日本船史 261

笹子丸(ささこまる)

 

昭和初期の世界的な金融恐慌の最中(サナカ)に、日本の造船、海運業共に不況に喘(アエ)いでいたが、政府逓信省では昭和七年九月、老齢不経済船を解体し代替優秀船の建造を企画、助成金を交付して時局救済目的の第一次船舶改善助成法を提議、第六十三回臨時議会で可決された。

この法案が同年十月一日実施となり、十二船社に合計三十一隻の建造が助成され船齢二十五歳以上の老朽船九十四隻が解体された。

 

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三年後の同十年四月十一日実施の第二次、続く十一年六月一日の第三次で、夫々八隻と九隻が建造され造船界は活況を呈し造船技術も顕著な進歩を見せ、海運界でも外国船と肩を並べて引けをとらない優秀船が世界の注目を浴びた。

第一次から三次までの船舶改善助成法は、当時英国が実施していたS(スクラップ)&B(ビルド)方式を参考にした老朽船の解体による、代替船新造政策であったが、続く十二年に新規制定された優秀船舶建造助成法は全く解体を条件とせず、新造船の建造助成のみが目的の法令であった。

同年四月一日この助成法が実施となり、第一種旅客船の部で日本郵船が七隻と大阪商船が五隻、計十二隻が適用を受けて建造、第二種では油槽船八隻、貨物船八隻計十六隻が十六船社に助成された。

この助成を受け建造された日本商船は、戦前世界の海運界で旅客船、高速貨物船、高速油槽船など各分野で性能の優位が絶賛された。

高速貨物船の部で日本郵船が適用を受け、昭和十四年六月と十五年三月建造の東廻り世界一周航路用佐渡(サド)丸と佐倉(サクラ)丸、十四年一月と五月に建造の崎戸(サキト)丸、讃岐(サヌキ)丸の四隻が三菱長崎で完成し、更に翌年七月相模(サガミ)丸、十一月相良(サガラ)丸、続く十六年六月には七姉妹船最終笹子(ササコ)丸の三隻が三菱横浜で竣工した。

昭和十四年一月崎戸丸に始まりS級(クラス)最後の笹子丸の完成で、日本クラス郵船が長良丸型N級(クラス)六隻を建造して以来、赤城丸型A級(クラス)五隻を就航させ高速船隊の整備を実施、S級完成で最高潮に達したのである。

S級船は以前のN級、A級の拡大改良型で、三島型一軸船を船首楼付平甲板型の二軸に変更、出力九、六〇〇馬力、速力一九節の高速船で、総屯数九、二五八の鋼製貨物船笹子丸は、主機関・横浜マン型ディーゼル二機、二軸一〇、九五八馬力、最高速力一九・八節、全長一四七・二米、幅一九、深一二・五、船客定員四名の設備があった。

二番艙に設備の五〇屯吊重量物揚貨装置は、当時貨物船では最高で、太平洋戦争中戦車や大発等の輸送に本領を発揮したのである。

笹子丸は竣工十日後の七月八日陸軍徴傭船となり、商船としての任務に就く事なく宇品で軍隊輸送設備と兵装工事を施工、大連から第五師団精鋭を乗せ、海南島三亜(サムア)に集結し十二月四日出撃、十二月八日太平洋戦争緒戦時の馬来(マレイ)半島シンゴラに敵前上陸を敢行した。

無事成功後再び三亜から軍事物資をシンゴラに輸送、続いて比島リンガエン湾とホロ島を経由し、翌十七年三月二日に東部ジャワ島クラガン攻略作戦に参加、その後南方占領地間の輸送に従事した。

同年八月十七日門司発でマニラとパラオを経由し九月十八日ラバウルに到着、十月十二日ガダルカナル島攻防第一次強行輸送作戦に優秀貨物船六隻で出撃、十月十四日ガ島タサファロング海岸に到着、徹夜で揚荷を開始し、翌十五日早朝米空軍の熾烈な爆撃を受け被爆炎上、〇八五〇乗組犠牲者五名を道連れに遂に沈没、幾多の作戦に参加し、武功章に輝く笹子丸は、僅か一年三か月の短い生涯を閉じた。

なお辛(カラ)くも沈没時に生き残った乗組員八十五名は陸上に逃(ノガ)れたが戦時中最も悲惨なガダルカナルの激戦地で、米軍の空襲と艦砲射撃に曝(サラ)され、飢(ウエ)と病気に苦しみ乍ら救出駆逐艦の到着迄の一か月間に船長以下二八名が戦病死となった。

松井邦夫(関東マリンサービス(株) 相談役)

 

 

 

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