パイロットは乗船に際して、冬期に急変するマゼラン海峡の気象、脚の浅い空船の状態などからマゼラン海峡を抜けられない場合に備えて、パタゴニア・フィヨルド水路には入れるよう海図も持参していたので、西井船長はパイロットと協議のうえ湖水のような静かなパタゴニア・フィヨルドに入ることを決めた。
この水路地帯は大小無数の島々、岬、氷河で削られたフィヨルドとを結ぶ壮大な海の迷路で、太平洋に抜けるG. Trinidadまでの四一〇キロの水路はこれまでに一万トン級の大型船は通航したことがないといわれるスミス水道とパタゴニア水道の狭水路を突破しなければならなかった。
パタゴニア・フィヨルドに入る
険しい山並みに囲まれた平均水深二千メートルのフィヨルドは、静寂そのもので海面を叩くスクリューの音が大きくこだましていた。
昼前にスタンバイが掛かりいよいよスミス水道の湾曲した最も狭い水路に入る。左岸の山並みは左へと大きくくびれて半円を描いて右岸の方へと流れ、右岸は真っ直ぐ延びて右へ流れ、視野が開けた半円のところに右岸側から海面すれすれに台状の岩場が左岸近くまで張り出しており、五、六〇トンくらいの小型船が座礁して放置されていた。
船は岩場ギリギリ近くにそって左に転舵しながら湾曲をした水路に進入をはじめ、半円を描くように右へと進むにつれ船尾はロープで手繰り寄せられるように左岸へと急速に接近していくのが見えた。
「大丈夫かナー」と思ってみていると船が巻き起こす風が左岸の樹木をザーと大きな音を立てて揺るがせ、海上に張り出した樹木の先端が船尾のプープデッキをザーと触れるなかを抜けていった。
舵を握っていた田中正夫君(鹿児島県山川町)は通過したあと緊張の余り「心臓が止まりそうだ」とその場にへたりこんでいたが、しばらくして二度とごめんだと笑っていた。
パタゴニア水道は、心配していたガスにも関わらず無事通過して、七日未明に船が大きく揺れ出し無事太平洋に抜け出すことを知った。