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会社からは「何ら変わりはない、通航できるので運河へ向かえ」ということであったが、局長は「通航した日本船がないのを見ると何かが起きているとしか思えない」ということから船長は再三会社へ「南米に向けたい」という電信を入れた。

会社から了承の返信がないまま運河を目前にした七月二十日を迎え、船長は会社の返電を待つため運河着を一日ずらすことにして、八時に「エンジン・スローダウン」を命じて減速航海に移った。

 

大西洋をさ迷うマルシップ

 

十四時ごろ会社から「南米に向けよ」という電信が入り、針路をS/Eに向けて反転した。

しばらくすると通航待ちしていた各船からコーストガードや航空機の追尾を受けているが、南米に向け航走を始めたという通信が入ってきた。

運河を通航できずに大西洋に取り残された日本船を「大西洋にさ迷うマルシップ」という見出しでタイムズは報じていた。

帰国途中に非常事態になった場合には、収容した書類は焼却処分をする等して連合国側の手に渡らないようにとの強い要請を大使館から受けていたので、西井船長は無線を封鎖して、航跡を捕捉されないように隠密に航走することにした。

本船が社船間の連絡通信にも出ず突然に消息を絶ったので、日本の各船は本船が米海軍に拘束を受けているのではとの憶測をして大きな衝撃を与えていた。

七月二十五日にルーズベルト大統領が在米日本資産の凍結を発令、南部仏印進駐の日本軍の輸送船団が海南島を出港したことによるもので、先に受けた暗号の日時はこの事態を予測してのものである。

八月一日には日本軍のサイゴン上陸にともない日本に対する石油の全面的輸出禁止を発令した。全速力で運河に向かったおり、ボイラーに負担が掛かったのか、その後頻繁に蒸気漏れを起こした。

次期ドックに備えてパイプはサンフランシスコで多量に積み込んでいたので取り替え修埋には支障は来さなかったが、燃料油や水のロスは大きく、こんな状態が続けば燃料切れになりリオ・デ・ジャネイロに辿りつけるのか懸念される状況にまでなった。

 

燃料を石炭に切り替える

 

燃料切れになれば船内の燃やせるものは燃やそうといっていたが、八月十日、残油も残り少ない燃料切れ寸前でリオ・デ・ジャネイロに入港できた。

大阪商船の佐藤支店長が見えて、現在のところ当地での燃料入手の目途は立っていないが、石射大使共々打開に向けて奔走しているとの話があった。

また、数隻の船がブエノスアイレスで立ち往生しているとのことで、そのような中、ケープタウンで四十日余りも不当に拘束を受けていたマニラ丸も最後の移民を乗せて入港してきた。

燃料を石炭に切り替えることにしてブラジル陸軍から石炭の補給を受けて十九日出向ができたが、石炭専焼人員不足と低カロリー炭のため機関部員に掛かる負担はあまりにも大きく蒸気圧力は上がらず、ヨタヨタとした無残な航走でマニラ丸が本船を追い越していった。

二十五日にブエノスアイレスに着いたが、河沿の岸壁には日本郵船の貨物船、マニラ丸、ブエノスアイレス丸、山浦丸と山里丸が燃料の補給ができずに係留しており、山里丸に至っては陸軍の皮革を積取りにきたまま一カ月近くも出港できずにいるとのことであった。入港すると会社からタンカー建川丸を救援に差し向けるという電信が入っていた。

 

チリ海軍から補給を受ける

 

大使館や商船駐在員の奔走でチリ海軍のセメント二百トンをバルパライソまで輸送することになり、輸送に必要な燃料と陸軍の皮革を積んでいる山里丸に燃料の補給を受けることになり、八月二十八日本船のあとに続いて山里丸が岸壁を離れブエノスアイレスをあとにした。

九月五日未明にマゼラン海峡に入り、出口近くになった六日の朝の海況は物凄い風雨が海峡に吹き込む大時化になって、船脚の浅い空船同然の本船は操船が非常に困難な状態になってきた。

 

 

 

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