パタゴニア・フィヨルド突破航海記
森本賢治(もりもとけんじ)
ニューヨーク航路最終船
ニューヨーク航路に就いていた聖川丸は海軍の助金を得て建造、処女航海の際、横浜・サンフランシスコ間を十日と数時間の最短時間で横断する新記録をつくった船で開戦に備えて水上機母艦に改装されることになり、その代船となった「のるほうく丸」がカリフォルニア半島沖をパナマに向かっていた昭和十六年六月二十二日、ドイツ軍がソ連へ進撃を開始したとラジオが終日報じていた。
その直後に海軍から「七月二十五日までにパナマを通過して太平洋に出よ」という緊急暗号通信を受け取った。海軍と本船との間に使う秘密通信のための「商船暗号書」は海軍武官府より受領して横浜を出港した。サンフランシスコに入港したとき有吉駐在員が公にされていないがと前置きを言って、日新丸が原油を積み取りのためサクラメントに入港した一月、税関吏にふんした情報部員に商船暗号書を強奪される事件があったことを船長に話されていた。米国の資料によると日本海軍の暗号解読に大きな手掛かりを得たことが記されていた。
私は、ニューヨーク航路のパーサー(事務長)であったので聖川丸から「のるほうく丸」へと乗り移っていた。
運河では武装兵が足の置場もないほど乗船する物々しい警戒ぶりで、クリストバルでは日本の軍事行動に対する抗議ストライキを受けて荷役ができなかった。
ニューヨークに七月七日入港したが、各社のこの航路の運航は中止されていたようで本船が大西洋の港湾をはなれる最後の日本船であるとタイムズ紙が報じていた。また、七月末には対日資産凍結が日本船に及ぶことを恐れて北米各航路の運航は中止になった。
外交機密書類を収容する
七月二十五日までに運河を通過するためには、集荷をする時間的余裕がないので空船で帰国することになっていたところ、在米日本大使館より外交機密三十数梱包を日本に持ち帰るよう要請があって七月十日、ワシントンに近いバルチモア港でシルクストアに収容して帰途に就くことになった。
出港準備も整いクレアランスがおりるのを待っていたが、一向に届かず理由も明示されずに十二日の朝を迎えた。
多数の作業員が続々と乗り込んできて、その責任者が船長に「この船でパナマ運河を爆破破壊する」という疑いがあるので、これから船内外を点検すると述べて、ダイバーは船底を、他は新しい電線を引いた箇所がないかなどをチェック、夕方その疑いがないということでクレアランスが降り大使館員の見送りを受けて出港できた。
しかし、米国は十二日に「日本船は運河を通過させない」という措置をとっていたが、そのようなことを知る由もなく全速力で運河へと急いだ。
二、三日もしたころ、無線局長が船長に「運河の様子がどうもおかしい。数隻の日本船が通航待ちをしているはずだが通航したという交信が全然ない」という話があった。
その後も日本船が運河を通航したという様子がないので、船長は「運河の現況と燃料が厳しい査定を受けて十分に補給できず、余裕があまりないので状況によっては南米に向けたいので状態を知らせ」という電信を入れた。