船内消毒は船のすべての開口部を密閉し、猛毒の「青酸ガス」を使用する。ガス消毒は数時間で終るが、安全のため開口部をすべて開放してから約一昼夜は船内への出入りを禁止する。
「船のねずみ」の話はこれからである。一緒に乗っていたボースン(甲板長)から聞いた話をかいつまんで紹介しよう。
『昔は貨物船で船内消毒が終ると最初にやってくるのが「ニゴヤ」であった。ニゴヤというのは、貨物を降ろしたあとの船倉を片付ける掃除屋のことで、相当の余録があるらしい。〔注、ニゴとは「荷粉(にご)」と書き、貨物の脱漏物(例えば麦、大豆、石炭など)のことで、荷粉は荷役が終ったあと袋に入れて荷主に渡すことになっている。しかし、経済的価値のないもの、荷主が引き受けないもの等については、船長はその港の定めに従って「ごみ」として適宜処分することができた。〕
さて、船内消毒後、船にやってきたニゴヤはホールド(船倉)に転がっているねずみの死骸を拾い集め、袋に詰めて大事に持って帰るのである。どうするかというと、そのねずみを筆屋に売るのである。船のねずみは陸(おか)のねずみとちがって、広いところでのうのうと過ごしているから、ヒゲの先が傷んでいない。だから結構よい値で売れるそうだ。筆屋に持ち込まれるねずみが船のねずみか陸のねずみかは足の裏を見ればわかる。陸のものは黒いが、船のものは白いのだ。それよりも、船にねずみがいたということは結構なこと。昔から難破する船からはねずみが逃げるというからな――。』
私が練習船に乗船した昭和二十四年ころからのちも、ニゴヤやねずみにはしょっちゅうお目にかかっていたが、ねずみと筆屋の関係については実のところ半信半疑であった。ところが昭和五十年代の中ごろ、あるテレビ番組で著名な日本画家が「美人画などで髪の毛のような細かい部分を描くときには面相筆(めんそうふで)を使います。面相筆は、かつては船の中で捕らえたねずみのヒゲが最高といわれていましたが、今はイタチの毛を使っているようです」という言葉を聞いて驚いた。ねずみは死してヒゲを残していたのである。
人間の毛髪もそうであるが、動物の生まれたままの毛は先が鋭く尖っている。しかしその毛をいったん切ると、先端はまるくなって毛根から毛先まで一様の太さになってしまう。だから、筆の材料に動物の毛は生まれたままのものが最良で、すり減ったり傷んだ毛ではだめなのである。その点ねずみのヒゲは細くても腰が強く毛先も鋭いので、面相筆にはもってこいの材質だったのである。しかも、広い船底でのうのうと過ごしていたねずみのヒゲは長くて傷みも少なく、最良の品質だったのだ。
そこで、もう一度ねずみについて調べたところ、足の甲の白いのはドブネズミで、黒いのはクマネズミであることを知ったが、足の裏のことまでは書いてなかった。
ところで、日本語には鼠色、鼠返(かえ)し、鼠取り、鼠算(ねずみざん)などなどねずみ(鼠)のついた言葉が多い。船に関係しているのは鼠返しである。船は岸壁に着くと自船から出している係留策のすべてにラット・ガード(鼠返し)を取り付ける。これはブリキ製で「じょうご」型をしており、ねずみが陸からも船からもロープを伝って出入りできない構造になっている。
また、鼠算も昔から伝えられてきた加算の問題である。「正月に雌雄二匹のねずみが一二匹の子を産む。毎月この数で増えていくと、十二月にはねずみは何匹になるだろうか」というもので、答えは二×(七の二乗)の二七六億八二五七万四四〇二匹となる。いま、雌雄二匹を一組とし、一二匹を雌雄六組とすると、正月に一組が親子とも七組に増える。二月には、この七組がいずれも七組ずつ増えるから七の二乗となる。このようにして一二回の繁殖で七の二乗組となる。一組が二匹ずつであるから、総数はその二倍となるわけだ。