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絵で見る日本船史 260

田子の浦丸(たごのうらまる)

大正十二年四月一日、日本郵船の近海部が分離独立して近海郵船を創設し、三菱商事船舶部ではその時三菱本社の決定に従って、同十二月八日所有船九隻全部と航權及び附帯設備一切を新会社に移譲し近海部門から完全に撤退した。

かくて社船を持たない三菱商事船舶部は、専(モッパ)ら三菱各部が取扱う木材や小麦、石油等の運送契約や傭船業務に携(タズサ)わり、内外船主からの傭船多数を各地に配船運航した。

 

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従来海軍燃料油の輸入業務を扱っていた三菱商事では、将来必ず石油時代の到来を予想し昭和二年から三年にかけ日本のディーゼル油槽船の嚆矢(コウシ)と云われる、油槽船三隻を建造し、わが国油槽船業界を先導する立場となった。

更に商事の木材、小麦等各部門の扱い輸送量も急激な増加となり貨物船保有の必要に迫られ、昭和二年に至り北米材や穀類撒積(バラズミ)用の貨物船二隻を建造、十年と十二年には再び大型油槽船二隻、続く十三年に新鋭貨物船二隻、計九隻の大型船隊を保有するに至った。

昭和十五年に至り三菱商事では三菱鉱石の強い要請を受けて近海部門を再開、近海の石炭輸送目的の中型貨物船三隻の建造を決定し三菱重工横浜船渠に一括発注、同年五月三十一日第一船須磨(スマ)の浦(ウラ)丸、翌十六年五月三十一日田子(タゴ)の浦(ウラ)丸、十七年十二月二十七日に志賀(シガ)の浦(ウラ)丸の姉妹三隻が完成した。

第二船田子の浦丸は三、五二一総屯の鋼製貨物船で主機はレシプロ二、三〇〇馬力一基、速力一五・一節、全長一〇四・八米、幅一四・七、深八・五、船客定員三名の、三島型二檣四船艙の中型貨物船で二番艙には二〇屯吊の重量物揚貨(ヘビーカーゴーリフト)設備があり、三菱横浜船渠が昭和十二年十二月朝鮮郵船向け興東(コウトウ)丸を建造して好評を博し、同型船を近海郵船、飯野海運、三菱商事に合計八隻建造、三姉妹船は同型の夫々第五、六及び八番船である。

田子の浦丸は十六年五月三十一日に竣工し、直ちに当初の目的の近海航路で北海道から京浜地区へ石炭運送に就航、順調な成果を上げたが、半年後の十一月八日横浜で海軍徴傭船となり、南洋群島へ軍用建設資材やセメントを輸送、翌十二月八日太平洋戦争開戦当日は横浜から横須賀に回航し、布設機雷を満載し南洋群島へ運んだ。

翌十七年五月横浜に帰港後は、北海道、樺太から海軍用北洋材や石炭を内地に輸送、冬季の同年秋から十八年春まで内地・台湾間に就航し、ドラム缶入りガソリンや軍需物資を基隆や高雄港に運送、復航には台湾から木材や砂糖等を阪神や京浜に輸送し、時には上海や朝鮮にも寄港することがあった。

同十八年二月ガダルカナル島の撤退に始まる、戦局の様相が急変し各地の攻防戦や、各方面の海戦でも日本側の悲惨な敗北が相次ぎ輸送船の喪失も増大し、同年五月田子の浦丸は南洋方面の基地増強の命を受け佐世保に回航した。

同地でラバウル向け設営部隊と資材を満載、五月末佐伯(サイキ)湾に集結、宮殿(ミヤドノ)丸、日遼(ニチリョウ)丸等と共に四隻船団を組み、護衛艦22号駆潜艇一隻でパラオ経由ラバウルに向ったが、途中宮殿丸が被雷沈没となり、残る三隻は同年六月二十三日無事にラバウルヘ入港する事が出来た。

翌七月二十七日ブーゲンビル島ブイン泊地に出撃し揚荷中、連日十日間に渡る米空軍の爆撃で被害甚大、揚荷を残しラバウルに帰港し、更に横須賀に帰還の命を受け八月十七日トラック島に回航した。

トラック島で横須賀揚転送砲弾と空ドラム缶を積載し、便乗者百十名が乗船、日威(ニチイ)丸と二隻船団で護衛は海防艦隠岐(オキ)一隻であった。

八月二十八日出港北上中、九月三日一九五五、伊豆七島三宅島の南東三二浬地点で米潜ポーラックの魚雷を受け、犠牲者七名を道連れに約一時間後に沈没、牛存者全員一五一名は隠岐に救助された。

松井邦夫(関東マリンサービス(株) 相談役)

 

 

 

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