船のねずみ
元東京商船大学教授
橋本進(はしもとすすむ)
頭巾(ずきん)をかむり、右手に打ち出の小槌を持ち、左手は背に負うた袋の口をしめて握り、米俵の上に立った大黒(だいこく)様と、その傍らに大黒(だいこく)ねずみ(白ねずみ)を配した図柄は、昔から吉兆の代表格として扱われていた。とくに白ねずみは縁起のよい動物と信じられていたため、ねずみを題材とした民謡も多く、庶民からも親しまれていた。
ところが、いつのころからか気味悪がられ、不潔な動物として嫌われるものになってしまった。しかしそれは、世界に約二千種類といわれる?ねずみ一族?のなかのほんの一部、家ねずみと呼ばれる三種類のねずみのためである。
その三種類のねずみのなかでもっとも有名なのがドブネズミで、一杯飲み屋の裏通りとか、地下鉄の排水溝などでよく見かけるやつである。次がクマネズミで、昔は家の天井裏を闊歩(かっぽ)し、ときには猫に追われてドタバタ劇を演じていた。残りの一種類はハツカネズミで、これは前の二種類にくらべて非常に小柄である。そんなことからハツカネズミをペット的な存在と思っている人が意外に多い。
ドブネズミの原産地は中央アジアで、江戸初期に朝鮮半島を経由して日本に渡来したといわれている。平均体長が二二センチの、可愛(かわ)いげのないこのねずみが急激に増えだしたのは明治以後のことで、ヨーロッパから船で密入国( ? )したらしい。
クマネズミは東南アジアが原産地といわれる。やはり平均体長は二二センチで、家ねずみのなかで人間との共存関係( !? )を作った最初のねずみである。その歴史は、中世にイスラム教徒と戦った十字軍が、パレスチナから船でヨーロッパヘ帰るときにまぎれ込んだのが始まりだという。また、日本に渡来したのは七世紀ころで、中国からの遣唐使船にまぎれ込んできたのではないかといわれている。ちなみに、それがわかったのは、遣唐使の持ち帰った仏典がねずみにかじられたためであった。このねずみを英名ではブラック・ラット(black-rat)またはハウス・ラット(house-rat)というが、ときにはシップ・ラット(ship-rat)と呼ぶこともあるところをみると船もクマネズミの生活の場であったことがうかがえる。
ハツカネズミの原産地はアジア中部、地中海地方といわれているが、いまでは世界各地、極地にまでも住みついている。体長七・五〜一〇センチ、尾長六・五〜一〇センチで、小形である利点を生かして、あらゆる所へもぐり込んで密航したのであろう。
さて、ここでねずみの語源については「寝ずに見る」から「不寝見(ねずみ)」となったとか、「盗み」が転訛(てんか)して「ねずみ」となったのだとかいろいろいわれているが、これといった決め手はない。
ところで、船や飛行機が外国と往来するときは、必ず検疫が行われる。これは検疫法に基づくもので「国内に存在しない伝染病の病原体が船や飛行機によって国内に侵入することを防ぎ、また伝染病の予防に必要な措置を講ずる」ということを目的としたものである。ここでいう伝染病は、検疫伝染病と呼ばれるもので「コレラ、ペストおよび黄熱(おうねつ)」を指し、これらの伝染病は人間や動物によって運ばれる公算が大きい。
そこで人間には、それらの伝染病が発生するおそれのある地域を経由するときにはその予防措置が講じられ、種痘や予防注射が行われる。その証明書は用紙が黄色なので「イエロー・カード」と呼ばれている。ところが動物(密航動物、主としてねずみ)に対しては当然のことながらイエロー・カードは発行してくれない。かといってその都度、船内や機内を検査することは多くの人員と経費と長い時間が必要となる。そこで検疫法は六カ月の有効期間を設けて外国を往来する船舶や飛行機に対して「ねずみ族の駆除」を指示している。つまり、ねずみ族を駆除したという証明書があれば、日本に帰ってくるたびの検査は必要ないというわけだ。船ではこの「ねずみ族の駆除」を「船内消毒」と呼んでいる。