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とぶっきらぼうに告げた。武男は慣れた動作でサイマキ海老の尻尾を口で噛み切った。そして彼が手にした仕掛けの針先に、素早くしかも丁寧にそれを付けた。

例によってぎこちない動作で、初心者はのそのそと手にした仕掛けを海底深く沈めた。武男はそれを確認すると彼の仕掛け巻きをひったくるように手に取った。

人差し指をテグスの下に静かにあてがった。海底と錘(おもり)付きの針とがコツコツと接触する微妙な感触を指先でそっと確認した。素人には極めて難しい「底立ちの確認」という動作である。

そして、おもむろに一手半テグスを手繰ると再び彼に仕掛け巻きを手渡した。

「このままにしといたらいい」

一言そう告げると武男は再び操舵室に戻った。初心者は怪訝(けげん)そうな顔をしながらも、武男に渡された仕掛け巻きを傍らに置き、テグスをしっかりと握り締めている。

その僅か一、二分後のことであった。彼の手にしていたテグスが、左右にもそもそと一瞬揺らいだと思うや否や、突然、海中に向かって生き物のようにするすると一気に滑り出した。二尋(ひろ)ほど滑って糸の動きが止まったのを確認した武男は、

「今だ、合わせを入れな !」

と大声で叫んだ。初心者は何が起きたのかさっぱり分からず、今にも泣き出しそうな不安な顔で武男の方を振り向いた。

「合わせだおう ! 合わせをくれてやんなおう !」

初心者はわれに返り、テグスをしっかりと握り締めた右手を頭上高く振り上げた。これで真鯛の上唇を深々と針の切先が貫いたことは、武男の長年の経験ですぐにわかった。素人ながら見事な大合わせが決まったのだ。

すぐに武男は彼の傍らに駆けつけた。

「でっけいぞ、油断すんな ! 魚が引いたらテグスを滑らすように素早く伸ばせ ! 重ていだけの時は一気に手繰れ ! 魚と無理な綱引きだけはするなおう !」

武男が落ち着いて指示した。一進一退の攻防劇が続いた。危うい場面も何度かあった。その都度、武男は的確な助言を彼に与えた。時間にすれば五、六分であっただろうか。初心者にしてみれば一時間にも感じたことであろう。

突然、前方の海面にボコボコと大きな泡が立ったかと思うと、海中からゆらりゆらりと何かが浮いてきた。

初め白く小さかったその何かは、浮き上がるにつれ赤みを増し、だんだん大きくなって彼らの目前に迫ってきた。

ゴボッと不気味な音をたて、ついにその何かが海面に浮上した。目の覚めるような桃色に輝く雌の大鯛だった。武男が大ダモ(大きな玉網)を用意した。バシッと音をたて、見事一発で船上に掬(すく)い上げた。

初心者は腰が抜けたように、へなへなとその場に座り込んでいる。見た目にも十キロは優に超える大物であった。武男ですら年にそう何度もお目にかかることができない大鯛だ。

「最後にやったおう ! よかったおう !」

武男が彼の肩に両手をかけてそう叫んだ。初心者は汗と涙にまみれたくしゃくしゃの笑顔を武男に向けた。

唖然(あぜん)として顔を見合わす常連さん達を尻目に、二人は手を取り合っていつまでも喜び合った。

武男にとって魚釣りとは、今日の今日まで自身の天職以外の何物でもなかった。武男は今まで自身の職業として魚釣りを心底楽しみ、数々の孤独な感動を船上で味わってきた。

例のブリの大漁の件も然り、ここで魚釣りを通じて彼自身が今まで得た孤独な感動を事細かに紹介すれば限りがない。

だが少なくとも言えることは、その感動はいずれも、職漁者である彼自身の職業意識を満足させたに過ぎなかったということである。

武男は魚釣りが職漁者以外の人々にも大きな感動を与えることに気付いた。一介の漁師であるこの自分が、自身の培った技能をもって、ずぶの素人である釣人に一生の思い出を与えることができる。そして釣人とともに手を取り合ってその喜びを分かち合うことの素晴らしさ……。孤独な感動とは異なる新たな感動の存在にも気付いた。

 

 

 

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