池内の身内に突然の不幸があったためだ。
清酒一本を白い紙に包み大事そうに小脇に抱え、土曜の午後、突然池内は本庄家を訪れた。
池内は「身内に不幸があり、明日は鴨居まで出かけなくてはならない。生憎とその日は前々から遊漁客を乗せる約束となっている。年に一度の乗っ込みの真鯛釣りを楽しみにし、俺を慕って二月も前から名指ししてくれた客達だ。
他の漁師に頼むにしても、お馴染みさんなのでめったな者に頼むわけにはいかない。
武男、お前ならば腕の方は間違いない。そこを見込んで代役を頼みたい」と言うと深々と武男に頭を下げた。
武男は今まで特に意識して遊漁客を取らなかったわけではない。興味がなかっただけである。何も副業までしなくても、一家の食い扶持(ふち)ぐらいは職漁一本で何とかやっていける。市場の休みの日とくれば、仕掛けや擬餌針作りなど他にやらなくてはならないことが五万とある。今の今までそう思い続けてきたからだ。
第一、漁師のこの俺に客商売など務まるものだろうか。池内にその旨を正直に打ち明けた。
池内は「何も客商売と考える必要はない。皆、手慣れた連中ばかりだ。なあに俺の船で修行させてやるぐらいに考えておけばいいのだ」と言うともう一度頭を下げた。
武男は「承知したので頭を挙げてくれ」と頼んだ。二人の話の頃合いを見計らうかのように、道江が茶碗を二つとコノシロの酢付け、イサキのナメロウを食卓に運んできた。
まだ明るい時分からの酒席となった。鱸(すずき)の魚場の話やその餌の価格の話などで大いに盛り上がった。池内は望みどおりに事が運んだせいか、すっかり上機嫌となって武男の家をあとにした。武男は何故(なぜ)か心底酔うことができなかった。
四人の客は一人を除き確かに手慣れた連中だった。三人の手慣れた客は「相模屋」という旅館を兼業した船宿に数年来通い詰める、いわゆる「常連さん」と呼ばれる連中であることがわかった。
その常連さんの一人が、おどおどと不安そうな一人の釣客をそっと指差し、「われわれ三人は仲間同士だが、彼は相模屋に昨晩予約を入れたばかりの初心者だ」と武男に小声で告げた。
武男はいつものように布袋丸を自分の手足のごとく操った。八景ではおそらく自分だけしか知らない下浦沖の秘密の魚場に、彼らを惜しげもなく案内した。三人の常連さん達は、真鯛の潜む確かな魚場にさえ案内すれば、後は何一つ武男に世話を焼かせることはなかった。
常連さん達は下手な漁師顔負けの鮮やかな動作で手釣糸を操り、次々と真鯛を手にしていった。やがて約束の四時間が過ぎ、間もなく沖上がりの時間を迎えようとしていた。
常連さん達は一人当たり七、八枚の二、三キロクラスの乗っ込み真鯛を手にし、満足そうに談笑しながら道具の手仕舞いを始めていた。
ふと武男の視線が、船首(みよし)の取り舵にちょこんと座った件(くだん)の初心者の姿に注がれた。ぎこちない動作で見よう見まねで手釣り糸を必死に操る彼の桶(おけ)の中が、まるで空っぽであることに武男は気付いた。
秘中の秘の好魚場である。船の真下には確実に真鯛が泳いでいるはずである。釣れぬ訳がなかった。
武男は自作の仕掛けが巻いてある木枠を手にし、彼の傍らにそっと立った。それに気付いた初心者は武男の方を振り向き、済まなそうに作り笑顔をよこした。
武男は自分の仕掛け巻きを彼に渡し、
「俺の仕掛けだ。これでやってみろ」